だが、マグダレーナがバッハの「仕事のパートナー」としてはるかに重要だったのは、おそらく家で行なわれる音楽の「商売」におけるそれである。
(ライプツィヒにやってくる前のケーテンやヴァイマールも含めて)バッハの家は、単なる家族の生活の場ではなかった。レッスンやリハーサルの場であり、楽譜や楽器の制作工房でもあった。その全般にわたって、マグダレーナは夫の仕事を手伝っていたはずなのだ。
マグダレーナがバッハの楽譜の優秀な写譜家だったことは有名だが、たとえば礼拝で上演されるカンタータのパート譜作りは、カントールの妻として当然の義務だった。
バッハは、作曲や演奏だけで身を立てていたわけではなかった。楽器や楽譜のレンタルや販売も、重要な収入源だった。そのことは、何枚もの領収書が証明している。マグダレーナや弟子たちによる筆写譜も、もちろん貸し出しや販売の対象だった。マグダレーナが夫の楽譜をせっせと筆写したのは、商売上必要だったから、というのが第一の理由なのだ。
18世紀前半、職人や商人といった自営業者の妻は、夫の仕事の共同経営者でもあった。家庭における妻の仕事が、もっぱら夫や子どもの世話と家事へと狭まるのは、「もっと後の時代の話」(シュプレー氏)である。家族に尽くす「糟糠の妻」は、「もっと後の時代」が生み出した理想なのだ(『バッハの思い出』の作者も20世紀の人である)。それをマグダレーナに当てはめるのは、ひょっとしたら早計かもしれないのである。
マグダレーナがバッハを愛していたから彼に嫁いだかどうかもわからない。彼女の手によるプライベートな記録は、一切残されていないのだから。確実なのは、一介の宮廷歌手から、楽長の妻、そしてライプツィヒのトーマスカントールの妻になることは、社会的地位の上昇を意味したことである。「楽長夫人 die Frau Capellmeisterin」のタイトルは、夫の死後も有効だった。マグダレーナは一般的な教師の未亡人より多額の収入を市から得ることができたし、夫の死後も楽譜の売買などを行なっていた。
多くの仕事に追われる一方で、マグダレーナは結婚してから20年近く、ほぼ毎年のように妊娠、出産していた。バッハもタフだが、マグダレーナも十二分にタフである。夫婦揃ってある意味超人だったのではないだろうか。
筆者は、もしマグダレーナが19世紀に生きたとしたら、クララ・シューマンのように有能な音楽家兼家庭人であり得たのではないかと思っている。従来考えられてきたより、より多様であるらしい彼女の仕事ぶりは、まさにその想像を膨らませてくれるのである。
本稿執筆にあたり Eberhard Spree. Die Frau Capellmeisterin Anna Magdalena Bach.(Altenburg. 2021)を参考にした。