オールドルフ

9歳のとき、バッハは、母エリーザベトを失った。父はまもなく再婚したが、新しい家庭を楽しむゆとりもないまま、亡くなってしまう。そこでバッハは、前述の兄とともに、小さな町オールドルフでオルガニストをつとめていた長兄、ヨーハン・クリストフのもとにひきとられた。

バッハは合唱隊で歌って家計の助けをしながら学校に通ったが、成績はたいへん優秀で、12歳のときにはクラスで1番になるほどであった。

このオールドルフ時代に、バッハははじめて長兄からクラヴィーアの手ほどきを受けたといわれる。上達はめざましく、兄の与える曲を次々と、彼は征服してしまった。息子エマーヌエルの伝えるところによると、バッハは長兄の秘蔵していた楽譜集を彼の目を盗んで夜中に持ち出し、月明かりを頼りに、半年がかりでこれを写譜して、勉強したという。しかしこれはバッハの目に大きな負担をかけ、晩年の失明の一因となった。

リューネブルク

子供が増え、長兄の家も手狭になってきたため、15歳のバッハは、ずっと北の街、リューネブルクに移った。ここの聖ミカエル教会には「朝課合唱隊」というすぐれた合唱団があり、そのメンバーになれば、付属学校の学費が免除された上、若干の手当てももらえたからである。美声の持ち主だったバッハは大いに歓迎され、ここで歌いながら、教会音楽の広いレパートリーに親しむことができた。だがまもなく彼は変声し、高い声と低い声がオクターヴで同時に出るという奇妙な経験を1週間したあげく、美しいソプラノを失ってしまう。

以後彼は、伴奏や楽器を担当して、合唱隊で働き続けた。バッハのオルガンに対する造詣は、このリューネブルク時代に、ひじょうに深まったと考えられる。

当時バッハは、ハンブルクを訪れてオペラやラインケンのオルガン演奏に接し、また近くのツェレで、フランス音楽に親しんだ。音楽家として一本立ちするための条件が、いよいよ整えられつつあった。

アルンシュタット

職さがしを始めたバッハは、18歳の年、とりあえず、ヴァイマル宮廷に仕える。領主の弟、ヨーハン・エルンストの宮廷でヴァイオリンを奏くのが、その役目だった。だがこれは3カ月ほどで終わり、バッハは、アルンシュタットの新教会のオルガニストとして、本格的な音楽活動を始める。彼がしばらく身を寄せた家には遠縁の女性マリーア・バルバラ・バッハがいて、バッハは、いつしか彼女と愛し合うようになった。

20歳の年に、バッハはいろいろな事件を起こしている。かねてから彼は、音楽指導のさい腕の悪い生徒たちを手荒く扱って恨みを買っていたが、あるときひとりの生徒にいんねんをつけられ、怒って剣で斬りかかってしまった。また、有名なブクステフーデの演奏を聴くためにはるばるリューベックに旅し、4週間のはずが、4ヵ月も帰ってこなかった。こうした事件によって非難を浴び、職場にいづらくなったバッハは、ミュールハウゼンへの転任を決意する。

ミュールハウゼン

1707年、22歳のバッハは、古い歴史をもつ町、ミュールハウゼンの、聖ブラージウス教会オルガニストになった。オルガンの若き名手としてバッハの評判はすでに高く、棒給も、水準をはるかに超えていた。着任後まもなく、マリーア・バルバラとの結婚式が、小村ドルンハイムの教会で挙げられている。

バッハは、オルガン演奏のほか、教会音楽の作曲と演奏に意欲を燃やした。現存する最初の5曲のカンタータが、この地で作曲される。しかし教会暦に従って規則的にカンタータを演奏したいというバッハの希望は、かなえられなかった。なぜなら、バッハの上司であるフェローネ牧師は敬虔派で、礼拝での大がかりな音楽の演奏に反対していたからである。このためバッハは、もうひとつの聖マリーア教会の牧師アイルマル(ルター正統派)と組み、当時ミュールハウゼンで戦われていた宗教論争にまきこまれる形になってしまった。こうして1年。バッハは、再びヴァイマルへと移る。

ヴァイマル

ヴァイマルに戻ってきた23歳のバッハは、こんどは、領主ヴィルヘルム・アウグスト公爵の宮廷オルガニストになった。ルター正統主義が熱心に奉じられていたこの宮廷でバッハはオルガンに打ちこみ、名実ともに、オルガンの巨匠へと成長する。現存するバッハのオルガン曲の多くは、この時代に書かれたものである。

マリーア・バルバラとの間には、ヴァイマル入りした1708年に長女のカタリーナ・ドロテーアが生まれ、1710年と14年には、ヴィルヘルム・フリーデマンとカール・フィリープ・エマーヌエルも生まれている。後者の洗礼式のさいには、当時親交のあったテレマンが、代父のひとりになった。

1713年、バッハは、ヨーハン・エルンスト公子を通じて、ヴィヴァルディら、イタリアの新しい協奏曲を知る。これをきっかけに、バッハは北ドイツの様式を克服し、音楽に、個性といっそうの表現力を加えていった。

ヘンデルの生地、ハレの聖母教会オルガニストの地位をいったん希望しながら断念したバッハは、1714年、楽師長(コンツェルトマイスター)に昇進する。以後彼は、4週間に1曲の割合で、教会カンタータを作曲する義務を負った。こうして、ヴァイマル時代後期には、オルガン曲とともに、若々しく美しいカンタータが多く生まれてくる。

当時ヴァイマルでは、領主本家とその甥の分家とがきびしく対立していたが、バッハは分家の方にも足しげく出入りして演奏していたため、しだいに領主の不興を買うようになった。

1716年、老楽長のドレーゼが死亡。バッハは自分が当然後任に選ばれるものと思っていたが、公爵はいっこうその意思を見せなかった。怒ったバッハはケーテンへの転職を決意し、辞表を提出する。

公爵は辞職を許さなかったが、バッハはがんとして意思を変えず、ついに拘留措置を受けてしまう。拘置4週間、バッハはようやく許されて、ケーテンへと移った。

ケーテン

1717年、32歳のバッハは、ケーテンの宮廷楽長の地位に昇った。領主レーオポルト侯は音楽を深く理解する愛好家で、バッハを大切にしたため、バッハは満ち足りた心で、職務である世俗音楽の作曲に、手腕をふるった。協奏曲や様々のソナタ、多くのクラヴィーア曲、世俗カンタータ等が、この時代に生まれてきている。

1720年、妻マリーア・バルバラが急死した。4人の子供を抱えて途方にくれたバッハは、ハンブルク聖ヤコービ教会オルガニストへの転進を希望する。多額の寄付が条件とされたためにこの転進は成らなかったが、ハンブルクにおけるバッハの演奏は、いつもながら、人々に大きな驚きと感銘を与えた。

1721年、バッハは16歳年下のソプラノ歌手、アンナ・マクダレーナを見初め、彼女と再婚する。以後マクダレーナはバッハに献身的に仕え、バッハの波風多く多忙な後半生を支える大きな原動力となった。

ライプツィヒ

ケーテンでの活動に見切りをつけたバッハは、1723年、大都市ライプツィヒに出て、由緒ある聖トーマス教会のカントルになった。彼の仕事は、音楽の先生として暴れん坊の子供たちを教育する一方、音楽監督として、市の教会音楽をとりしきることであった。しばらくの間、バッハは、日曜祝日礼拝のためのカンタータを、毎週のように書き続ける。「ヨハネ」「マタイ」の両受難曲も生まれ、ライプツィヒ時代初期は、バッハの教会音楽活動の頂点を形成した。

多忙な自分をよく助けてくれるマクダレーナへの感謝をこめて、バッハは1725年から、彼女のための2冊目の「クラヴィーア小曲集」を作りはじめている。

すばらしい音楽を次々と書いているというのに、バッハは、その価値にふさわしい扱いを受けなかった。バッハは自分の権利をたえず主張して、上司や当局と、争いを続ける。さしもの創作熱も、こうしてしだいにさめていった。

市参事会との対立、減俸処分、教会音楽の現状を訴える上申書の提出、その黙殺、といったように、1730年ごろのバッハは、不満とあつれきの中に暮らしていた。

ヨーハン・クリスティアンの生まれた1735年には校長のエルネスティとの対立がのっぴきならなくなってしまい、翌年ザクセン選帝侯から「宮廷作曲家」の称号を受けて、やっと窮状を乗り切るといったありさまだった。

これでは、バッハが教会の外に目を向けるようになるのも、無理はない。中でも彼に喜びを与えたものは、1729年に始まる、コレギウム・ムジクムの指揮であった。コーヒー店や野外レストランを本拠として行なう大学生たちとの合奏から、チェンバロ協奏曲をはじめとする器楽曲や、世俗カンタータが生まれてくる。またバッハは、1731年の「クラヴィーア練習曲集第1部」(既出版の6つのパルティータをまとめたもの)によって、自作の出版にも着手している。

上の息子たちが音楽家として巣立ってゆく頃にも、バッハ家には、新しい子宝が恵まれ続けた。1742年、57歳の年には、最後の子供、レギーナ・スザンナが生まれる。こうして20人の子の父となったバッハがおじいさんになったのは、エマーヌエルの子が生まれた60歳の年であった。

1737年のシャイベによるバッハ批評に象徴されるように、晩年のバッハは、しだいに孤高の趣を強めてゆく。古様式を研究し、自作を改定するのが彼の楽しみとなった。1747年のベルリン訪問、フリードリヒ大王との会見は、そんな晩年の生活における、ひとつのハイライトといえるであろう。この年には、ミツラーの「音楽学術協会」への加盟も行なわれている。

その後、長年酷使し続けてきた目が、疾患を起した。2回にわたる手術は成功せず、かえって、バッハの健康を破壊してしまった。やがて卒中が起り、バッハは昇天する。1750年、65歳の時のことであった。

掲載情報

2020年9月18日(金)発売の「音楽の友」10月号の特集は、「J.S.バッハ『三大宗教曲』の魅力を知る——《マタイ受難曲》《ヨハネ受難曲》《ミサ曲ロ短調》」!

61ページには「バッハ作品を深く愛した 音楽学者・礒山雅氏の言葉」が掲載されています。

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