聖フランチェスコは、カトリック教会でも抜群の人気を誇る聖人。裕福な商人の家に生まれながら、「神の声」を聞いて信仰にめざめ(当時はよくあった)、富も家族もこの世のすべてを捨てて野に出、愛と平和を説いて清貧のうちに生きた。
腐敗していた聖職者たちにうんざりしていた人々は、ぼろをまとい、石の上に眠り、托鉢で命をつなぎ、壊れた教会を修復し、イエス・キリストにならって病人や貧者に仕えるフランチェスコに次第に共感し、あるいは弟子として生活をともにし、あるいは信者として付き従った。
フランチェスコの人気は時代の要請でもある。当時は「十字軍」の真っ最中。教皇ウルバヌス2世が、セルジュク・トルコに占領されたキリストの聖地エルサレムを奪い返せと呼びかけて始まった十字軍は、最初こそ成功したものの、その後は失敗に次ぐ失敗だった。
けれど、中東との交流はヨーロッパを刺激し、貿易による富をもたらす。アッシジのような都市が繁栄できたのも、十字軍のおかげだ。
あちこちから税を取り立てていた教会も富み栄えた。妻帯を禁じられていた司教たちは愛人を囲い、美食を謳歌し、豪華な聖堂を建てた。怒り狂った民衆の中から、教皇に反旗をひるがえす聖者たちが現れる。危険を感じた教皇は彼らを弾圧した。
けれど、フランチェスコは弾圧されなかった。彼は教皇や聖職者には従えと説いたから。ある日、フランチェスコと12人の仲間たちが新しい修道会をつくる許可を求めて教皇の前に現れたとき、教皇インノケンティウス3世は、裸足で、布と縄だけを身につけ、薄汚れた彼らの姿に驚いたという。しかし教皇は計算高かった。自分たちに向けられている批判をかわすためにも、懐の深いところを見せておかなくては。幸いこの若者たちは、教皇庁には反抗する気がなさそうだ。
教皇からのお墨付きを得たフランチェスコと仲間たちは、「小さき兄弟団」(のちフランチェスコ会)と名乗って活動に励んだ。やがてメンバーは5000人に膨れ上がり、フランチェスコの手に余るようになる。フランチェスコはグループの運営を弟子に任せ、隠遁生活に入った。
生きとし生けるものすべてを慈しんだ聖フランチェスコは、引退して森や洞窟に暮らすようになってから、動植物、そして太陽や水といった自然そのものと、より深く心を通わせるようになる。フランチェスコが説教を始めると、鳥たちが舞い降りてきて聞き入ったエピソード「小鳥への説教」は有名だ。
まもなくフランチェスコは、山の中で「聖痕」を受ける。イエス・キリストが、磔になったときに打たれた手足にできたのと同じ傷だ。
奇跡である。だが傷は傷だった。いくつもの病気を患っていたフランチェスコは急激に衰弱し、その2年後に天に召された。
亡くなって2年後、フランチェスコは列聖(模範となる信者を、教会が聖人の地位にあげる)される。同時に、フランチェスコの遺骸を祀る聖堂の計画が立ち上がり、丘を覆う「聖フランチェスコ大聖堂」が建設されることになる。
「小鳥に説教する聖フランチェスコ」のエピソードは、音楽家にも霊感を与えた。
19世紀の大ピアニストで、晩年は聖職者になった信仰深い人物フランツ・リストは、愛らしいピアノ作品「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」を書き、
20世紀フランスの大作曲家で、敬虔なカトリックであると同時に「鳥類学者」を自称するほどの鳥好きだったオリヴィエ・メシアンは、オペラ《アッシジの聖フランチェスコ》で、彼の人生のハイライトを描写した。
「小鳥に説教する聖フランチェスコ」はオペラの最大の聴きどころで、メシアンはこれを書くために「天国に一番近い島」として知られる南太平洋のニューカレドニアに飛び、鳥の声を採譜している。
メシアン《アッシジの聖フランチェスコ》第2幕6場「小鳥に説教する聖フランチェスコ」
一切の財産を拒み、すべてのいのちに愛を注いだ聖フランチェスコ。彼は、何も持たなくとも喜びに満ちて生きることができると身をもって教えた。そんなフランチェスコを、「エコな聖人」と呼びたくなるのは当然だろう。実際彼は、1980年、教皇ヨハネ=パウロ2世から「自然環境保護の聖人」に指定されている。「モノ」に頼らない生活は、コロナ禍で見直される私たちの生活のヒントにもなるのではないだろうか。
自然やいのちを、あるがままに受け入れたフランチェスコ。その眼差しは、やがて訪れるルネッサンス——教会の束縛から人々が解き放たれ、自然や人間の、あるがままの姿に目を向ける時代のはじまりを告げるものだったのである。