
——観客として、「演奏が誇張されている」と感じることはできるのでしょうか? その見分け方があれば教えてください。
オールソン はい、できると思いますよ。ただ、それはその人がどれだけ音楽やピアノ演奏、あるいはショパンの音楽について知っているかに、多少は左右されます。教育や経験も影響しますね。たとえば私自身、バスケットボールにはまったく詳しくないんです。なので試合を観に行くと、誰を見てもすごく見えてしまう。もう全員がすごいと感じるんです(笑)。
同じように、ショパン・コンクールを観に来た人が「みんな素晴らしい」と感じるのは、当然のことです。なにしろ、ある一定以上のレベルに達していなければ、そもそも出場すらできませんから。
でも、その中でも、たとえばピアノを学んできた人、音楽家である人、あるいは音楽のレッスンを長く受けてきた人であれば、聴いたときに意見をもてるでしょう。しかし、クラシック音楽が好きでも専門的な訓練を受けていない場合は、力強くて速くて、圧倒されるような演奏に感動をすることも多いと思います。そこにはいわゆる「カリスマ性」という要素も関係しています。
あるピアニストが、舞台上から観客に向けて強く“自分”を投げかけられるのに、別のピアニストはそうではない——こうした違いは、説明できないところもありますし、教えて身につくものでもありません。
そしてこれは、「動きが多いか少ないか」とも無関係です。身体を大きく動かすピアニストの中には、観客に強くアピールできる人もいれば、逆に動きが多くても不評な人もいる。
私のようにほとんど動かないタイプのピアニストでも、観客を惹きつけられる人もいれば、ただ退屈そうに見えてしまう人もいます。たとえばラフマニノフは、ほとんど動かず、表情も変えずに演奏していたのに、もっともドラマチックな演奏をするピアニストだったと言う人もいます。彼の演奏には、目に見える“ドラマ”はなかったけれど、音楽そのものが持つドラマ性は圧倒的で、見た目からわからないことで、より一層面白いと思われたのです。これもまたひとつの在り方ですよね。つまり、観客が何を好むか、どこに心を動かされるかは人それぞれです。

オールソン 「どうやって見分けるか」という質問は、実に興味深いものです。私の考えでは、「音楽をどう聴くべきか」という“正解”は存在しません。
たとえば演奏会でベートーヴェンの交響曲を聴くとして、途中でぼんやりと“夢想”し始めて、あらゆる種類の感情や考えを抱くことがあります。ある人は、仕事のトラブルを思い出していたり、子どもの朝の様子を考えていたり、あるいは「あれ、ファゴットがちょっと音程悪いな」なんて思っているかもしれない(笑)。でも、どれも間違った聴き方ではないんです。
ホールに2,000人の観客がいたら、2,000通りの体験がある。似ているものもあるでしょうが、すべてが同じではありません。
ただ、クラシック音楽の世界には“基準”があります。そしてそれが難しい点でもあります。なぜなら、音楽における基準の中には、絶対に客観的で明確なものもあるからです。
たとえば、あるピアニストが「ド」であるべきところを「レ」で弾いてしまったら、それは単純に間違いです。でも、「メゾフォルテ」と書かれているところを「メゾピアノ」で弾いたとしたら、間違いになるでしょうか? それは文脈次第です。次の音がどう続くか、全体の表現のなかでどう機能しているかを見なければ判断できません。
そしてそれこそが、ショパンコンクールにおける私たち審査員の仕事なのです。正確に弾けているか、十分に速く演奏しているか、十分に大きなまたは小さな音量が出せているかといった技術的な要素以上に、その演奏が魔法のように感じられるかどうか、そこを見極めることなんです。ですから、演奏の評価において客観性には限界があるんですね。演奏がちょっと速すぎても、遅すぎても、それでも“魔法”を感じさせることはあります。
——「コンクールを聴くために、私たちが何かを“求められている”わけではない」、ということを理解しておくのは大切ですね。
オールソン まさに、そのとおりです。一番大事なのは、あなた自身がどう感じるか。
「私は音楽のことは何も知らないけど、自分の“好き”はわかる」って言う人がよくいますが、それも本当にその通りなんですよ。
同時に、人は「知っているものを好きになる」傾向もあります。たとえば、初めて行くレストランで、見慣れない料理が出てきたら少し緊張しますよね。でも、食べてみて「おいしい!」と感じたとき、そこからはもう“知っている味”になる。ピアニストの演奏を聴くことも、それに似ています。
私が若い頃、ニューヨークの近くに住んでいたので、とても幸運なことに世界最高のピアニストたちの演奏をカーネギーホールで聴くことができました。音楽は好きだけどピアノは弾かないという友人を連れていったことがあります。彼女は「私には違いなんてわからない」と言っていましたが、ルービンシュタイン、ルドルフ・ゼルキン、クラウディオ・アラウ、ホロヴィッツといった巨匠たちの演奏を聴くと、「全然違うのね!」と驚いていました。「音そのものが違う、感じ方が違う、体験そのものが違う。ピアノへ歩いていく姿からして違って見える」と。
では、ルービンシュタインとホロヴィッツとミケランジェリ、誰が“正しい”のか? 私にはわかりません。でも、どの人もそれぞれ本当に素晴らしいし、まったく異なる表現なのに正しく聴こえるんです。感情のうえでは、どちらも「正しい」と感じる、それが音楽の面白さです。
たとえば、同じ曲でもテンポは一つではありません。楽譜に「四分音符=144」と書いてあったとしても、あまり響かないホールで演奏するなら、そのテンポでは遅すぎて音が持たないかもしれない。逆に、残響がすごく強いホールでは、少し遅くしないと音がはっきり聴こえない。
つまり、「オールソンさんはあのベートーヴェンの楽章を遅く弾きすぎた」と言う人がいたとしても、それは“その場で何が起きていたか”を知らなければ判断できないことなんです。そのホールに実際にいて、その響きを聴いてみなければ、なぜそのテンポを選んだのかはわかりません。
だからこそ、音楽の評価はとても難しい。そして、だからこそ、人それぞれ違うということが素晴らしいんです。