ハプスブルク帝国を音楽的に象徴する作品に

帰国後、ヨハン1世は革命の鎮圧に貢献したクロアチア総督イェラチッチを讃えて「イェラチッチ行進曲」を作曲した。そしてラデツキーの凱旋祝勝会に向けて、再度その栄誉を讃える行進曲の作曲にとりかかった。しかし1849年9月24日、ヨハン1世は猩紅熱(しょうこう熱)に倒れて急逝し、「ラデツキー祝宴行進曲」は絶筆となった。

ヨハン・シュトラウス1世:「イェラチッチ行進曲」、「ラデツキー祝宴行進曲」(断片)

「ラデツキー行進曲」は、ハイドン作曲の「皇帝賛歌」(その旋律は今日ドイツ国歌となっている)や「美しく青きドナウ」と並び、ハプスブルク帝国を音楽的に象徴する作品となった。ヨハン2世は、「祖国行進曲」(弟ヨーゼフとの共作)と「ハプスブルク万歳!」の2作に、「皇帝賛歌」と共に「ラデツキー行進曲」を入れ込んだ。

「祖国行進曲」「ハプスブルク万歳!」

ハプスブルク帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント(第一次世界大戦勃発の契機となったサライェヴォ事件の犠牲者)が93年に来日して明治天皇と観兵式に臨席した際、日本側は「ラデツキー行進曲」を演奏して歓迎の意を表した。また作家ヨーゼフ・ロートは、1859年から1916年までのハプスブルク帝国を舞台とした歴史小説「ラデツキー行進曲」において、この曲をノスタルジーと王朝敬愛心を喚起するメタファーとして用いた。

こうして人口に膾炙するうち、「ラデツキー行進曲」が持つ微妙な来歴は忘れ去られた。今日、これをことさら言い立てるのは野暮だろう。ただ、1992年にウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを指揮した際、名指揮者カルロス・クライバーはこう語った。「当時この曲は恐れられていました。ラデツキーは恐ろしい将軍でした。だから本来この行進曲は演奏すべきではないのです」。

岩﨑周一
岩﨑周一 歴史学者

1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...