フランス語は自分にとって楽器のような存在

船越 『壊れた魂』をご自身で日本語訳されましたね(※)。水林さんは2つの言語の間をどのように行き来されているのでしょうか。私は、簡単な一文を訳すだけでも考え込んでしまうのですが。

※『壊れた魂』アキラ・ミズバヤシ著、水林章訳(みすず書房)

水林  言語は一種の牢獄です。そこから出ることが困難だという意味で。2つの言語を生きるということは、そのあいだを生きるということでもあります。それは一種の「自由」の経験だと思うのです。本当に言語というものは神秘ですね。 

船越 不思議なのは、同じ作品でも印象深く感じる箇所が、原語と翻訳の間で必ずしも一致しないように思えることです。

水林さんは「フランス語はご自身の楽器のような存在」と書かれていますが、詳しくお話しくださいますか? 私たち音楽家が言語を習得するにおいて、ヒントがあるような気がします。 

水林  楽器の演奏とは、楽器を「歌わせる」ことですね。言語にもやはり独特の音楽、リズムがあります。私にとって、フランス語は自分の外側にあった言語ですから、なおさらフランス語を「歌わせる」ことを意識的に追求しました。

フランス人がフランス語をどのように理解しているのかを感じ取るために、一番効果があったのは音読練習です。フランス留学中、ある口頭試験でこんなことがありました。テキストを渡され、質疑応答への準備時間が30分与えられるのですが、どのように読もうかと、頭の中で声の響きや抑揚をいろいろ練習したのです。自分の番が来て、思い描いていたように読むと、先生が「あなたがこのテキストをどのように理解しているのか、手に取るようにわかりました。試験は終わりです」と……。 

船越 楽器奏者が、演奏する以前に、まず楽譜の内容を理解し、音のイメージを頭に描かなければならないことと共通しているように感じます。 

水林 言葉には固有の音楽が内在しています。執筆中も声に出して読みながら、響きが良くないとか、やはり一語足りないとか、邪魔な音があるから別の言葉にしようとか、悪戦苦闘です。フランス語では、演奏家も通訳者=解釈者もinterprèteという同じ単語ですから、フランス語は音楽の演奏と言語の解釈を同じだと思っているみたいですね。

船越 だから水林さんの文章の美しさに、フランス人は魅了されるのですね。私はフランス語の小さな小説の翻訳に挑戦したことがあるのですが、そのとき、フランス語で「通訳者」と「解釈者」が同じ言葉である理由が、私なりに少しだけ垣間見えたような気がしました。文章を理解して、シーンを映画のように頭に描き、それに対して一番美しくふさわしいと思える日本語を模索する作業に、演奏との共通点があるような気がしたのです。

対談は水林家で行なわれた。柔らかな間接照明のもと、音楽と言語をめぐる対話が果てしなく続く。

語学が好きというよりも取り憑かれてしまった

船越 それにしても、フランス人が「あなたは本当に日本人なのですか?」と驚愕するほどの境地に達するまでには、実に厳しい鍛錬があったと想像しますが。

水林 実は、苦しいとか嫌だとか、やめたいなどと思ったことがないんです。しかし「好き」というのとも少し違うような気がします。昔ラジオ講座の録音を何十回と聴き続けていた僕を、父は「正常だろうか」と心配したこともあるそうです。取り憑かれてしまったという方が近いでしょうか。 

船越 でも「取り憑かれる」まで夢中になれることを見つけた人は幸せだと思います。私はフランスで、音楽が自分の存在意義そのものという音楽家たちに出会ったことで、それまでの自分の音楽への取り組み方がいかに甘いものであったかを、身を持って知りました。 また気づきとは、誰かから与えてもらうものではなく、自分自身で引き寄せるものだということも。

水林 僕がフランス語の教師として教壇に立つようになって唯一心がけたのは、授業で読む(音楽に置き換えれば演奏=解釈する)作品について、どうしてこのページが好きなのかを学生たちに伝えることです。著者や作品の概要についてなら、どんな本にも書かれています。他方、僕にしか伝えられないこと、それは「僕はどうしてこのテキストを素晴らしいと思うのか」なのです。

教育の根本は、知識を与えることではありません。自ら何かをつかみに行こうとする精神を、パッションという形で伝える、これこそが教育だと思います。パッションが身体に浸透すれば、生徒は自分の力で羽ばたけるのですから。

(後編に続く)

船越清佳
船越清佳 ピアニスト・音楽ライター

岡山市出身。京都市立堀川音楽高校卒業後渡仏。リヨン国立高等音楽院卒。長年日本とヨーロッパで演奏活動を行ない、現在は「音楽の友」「ムジカノーヴァ」等に定期的に寄稿。多く...