そして忘れてはいけないのは、ポリーニは聴衆と対話して過去と現代の音楽の溝を懸命に埋めようとしたことだ。晩年までヨーロッパの音楽の伝統をつなぐべく、伝統の流れに即した作品群の価値を聴き手に啓蒙した。
だからまだ一般聴衆に評価が完全に定まっていないシュトゥックハウゼンやブーレーズも、晩年になってもレパートリーから外れなかったし、プロデュースしていたプロジェクトではベリオ、シャリーノ、ラッヘンマンなどを19世紀以前の偉大な作曲家と並べて、つなげる形でプログラミングしていった。ポリーニは自分が亡き後のことも考え、あるべき音楽史の伝統を作っていくため、「種をまく人」になっていた。
作品に仕えるピアニスト、マウリツィオ・ポリーニ。柔和な眼差しをもって作品主体の演奏を取り戻し、20世紀半ばからの音楽史を創った偉大なピアニストと同じ時代に生きることができて本当に幸せだった。
晩年はどんな難曲も弾きこなす技巧は後退して、ピアノの音色にクリスタルのような硬度も失われていった。しかしより作品に自由に向き合えるようになったポリーニ。モーツァルトのピアノ協奏曲に再び向かうようになる。全盛期よりも自由で柔和なピアノは、モーツァルトの純粋無垢な世界を美しく奏でる。
ピアノ調律師の工具カバン
失われた音を求めて
アンジェロ・ファブリーニ 著/ピエトロ・マリンコラ 構成・文/酒井陽子 訳
ピアノ調律界の巨匠、アンジェロ・ファブリーニの回顧録。彼は完璧主義のピアニスト、ミケランジェリがもっとも信頼した調律師であり、現代最高峰のピアニストの美音を、プレイヤーと共に作り上げてきた名職人である。ポリーニのリサイタルでピアノに金に光るFabbrini(ファブリーニ)の文字を見た方も多いはずだ。アルゲリッチ、ツィメルマン、シフ、ルプー、バレンボイム、内田光子、キース・ジャレットも彼の仕事を絶賛してきた。
1934年にイタリアで生まれた彼は、これまでピアノを愛する多くの人々と共に歩んできた。彼とミケランジェリとの絆は特に深い。数々のリサイタルやレコーディングだけでなく、プライベートでも親密な仲であった。ミケランジェリの没後、彼は思わぬものをプレゼントされることになる――
60 年以上にわたり、誰よりもピアノそしてピアニストに寄り添ったファブリーニだからこそ、見て聞くことができたエピソードが満載。貴重な図版も必見である。