この本選は1か月かけて行なわれ、その間、コンクール参加者は「独房」に缶詰になって作曲しなければならなかった。参加者は試験会場にピアノやベッドなど、身の回りの品を持ち込まなければならず、さらに、自由な外出は一切できず、面会時間は決まっており、いつも監視がついていた。たとえば、1901年のローマ賞コンクールのときに、本選の会場となったコンピエーニュ宮殿で撮影された写真が残っているが、そこには、ラヴェルやアンドレ・カプレを含めた5人の本選参加者とともに、2人の監視役の守衛が写っている。
カプレとラヴェルの応募作(カプレが大賞を受賞)。同じ歌詞に作曲されている
本選参加者はこの期間、ほかの仕事は一切できないばかりか、逆に、ピアノのレンタル料や食費を払い込む必要があった。
たとえば、オペラ作曲家として名高いマスネは若い頃ひじょうに貧乏だったので、ローマ賞の本選に残ったとき、時計を売って払い込む食費を捻出したものの、ピアノをレンタルするお金がなかった。そのため、ほかの部屋からライバルたちがピアノを叩きながら大声で歌う音が響くなかで、彼はピアノなしで、死に物狂いでカンタータを作曲し、期限よりも前に提出して試験場を逃げ出したというエピソードが残っている。
マスネの場合にはその作品がローマ大賞を受賞したのでハッピーエンドになったが、落選続きの作曲家も多かった。ラヴェルもその一人であった。
ラヴェルの応募作を集めたアルバム『ローマ大賞のためのカンタータ集』
ローマ賞コンクールは、さまざまな批判を浴びながらも存続したが、1968年の受賞者(アラン・ルヴィエ)を最後に廃止され、現在は別の形になっている。