言うべきことは、音楽とはべつの、音楽だからとの口実を与えられないところで発言する

もうすこし余計なことをいえば、フォークやロックが広まり、一般のひとたちが音楽するようになった1960年代から70年代、ことばに、歌詞に、社会的なメッセージをのせて歌うというかたちがあった。メッセージののったうたは広がり、また、消えずとも、ほそぼそとなっていった。

そうしたところに、坂本龍一の音楽は、旧来のマーケッティング上では「インストゥルメンタル」なのかもしれないが、そうした呼称をつかわず、楽器の、いやシンセサイザーなどによる音楽をだしてきた。歌詞のようなことばを、かならずしも、伴うことなく。伴うことがあったとして、それが音そのものより重視されることはない。

そうしたものがでてきた、一般のひとたちにも認知されるようになったことは、大きかった、とおもう。YMOの楽曲で、ことばがなく、楽音のみのものはすくなくない。声があっても、ヴォコーダーで変形されたりしている。そうした、声の、ことばをともなった音楽、あいまいな、含みや喩のあることばではなく、メロディで緩和するのではなく、言うべきことは、音楽とはべつの、音楽だからとの口実を与えられないところで発言する。坂本龍一にはそうしたおもいがあった——とみるのは、どうだろう。

追悼になっているのかいないのか、混乱している身には、判断ができないのだけれど、坂本龍一さんの功績にすこしでもふれられているなら。

Photo by zakkubalan ©2020 Kab Inc.
小沼純一
小沼純一

音楽を中心にしながら、文学、映画など他分野と音とのかかわりを探る批評をおこなう。現在、早稲田大学文学学術院教授。批評的エッセイとして『ミニマル・ミュージック』『武満徹...