現在サン=サーンスは、一般的にロマン派の中でも「古典的主義者」として紹介されることが多いですが、少なくとも当時のパリにおいてサン=サーンスは、バリバリの「革命家」でした。発表する作品はなかなか受け入れられず、若手作曲家の登竜門であるローマ賞にも落選してしまいます。
そもそも19世紀初頭〜中盤のパリには、作曲家に対する最高の非難である「ドイツ主義的」と見なされていた交響曲や室内楽曲を受け入れる土台がありませんでした(器楽作品自体、価値が少ないと思われていたようです)。
それでも、サン=サーンスは「フランスでの成功の証」であるオペラに取り組むと同時に、ベートーヴェンやシューマンなど「ドイツ主義的」な作品を演奏・紹介し、室内楽や交響曲を熱心に作曲していました。
ピアノ三重奏曲 op.18(1863年/28歳)
サン=サーンスの頭脳は、音楽だけを追いかけていたわけではありません。本人の証言や記録によって、さまざまな顔をもっていたことがわかります。
・自由韻による詩集の詩人
・演劇の戯曲作家(喜劇『アペピ王』が成功)
・宇宙生成の理論に取り組んだ天文学者(フランス天文学会の発足メンバー)
・『精神主義と物質主義』、『問題と神秘』を著した哲学者
・長年、ギリシャの壺絵を研究し、講義も行なった考古学者
・異民族や異文化に関する資料を収集した民族学者
ほかにも、無数の似顔絵や漫画を描いたり、チェンバロ復興に力を尽くしたり……と、サン=サーンスの興味の範囲は留まることを知りません。半世紀にわたって音楽界の出来事を評論し続けた、ジャーナリストでもありました。
1908年、映画『ギーズ公の暗殺』の音楽を担当したサン=サーンス。映画のためにオリジナル音楽が書かれること自体は、いくつか先例があるようですが、有名な作曲家が手がけたという意味では、間違いなく初のものです(映画全編はこちらから観ることができます)。
恐らくサン=サーンス作品でもっとも有名な組曲《動物の謝肉祭》は、チェロ奏者ルブークが1886年のマルディグラ(謝肉祭)に催したプライべート・コンサートのために、室内楽曲として作曲されました。
仲間たちを笑わせてやろうと、作品は皮肉たっぷり。軽やかなオッフェンバックのカンカンを亀(第4曲)に、ベルリオーズの「妖精のワルツ」を象(第5曲)に踊らせたり、「音楽の化石」(第12曲)に自分の作品を引用する自虐もお手のもの。あまり上手とはいえない「ピアニスト」(第11曲)が、チェルニーの練習曲を弾く様子を「動物」と言ってしまうのは、なかなか辛辣ですね……。そんななか、この会を主催したチェロ奏者が演奏するために「白鳥」の優雅なこと!
ほかにも、リストが提唱した「交響詩」をフランスでいち早く取り入れたり、
交響詩《オンファールの糸車》
趣味の旅行(お気に入りはアフリカ!)での印象を曲に取り入れたり。
《アルジェリア組曲》、ピアノ協奏曲第5番《エジプト風》
知的好奇心旺盛なサン=サーンスが世に送り出した名曲はまだまだたくさん! 没後100周年を機に、さまざまな作品を聴いてみてはいかがでしょうか。
最後にサン=サーンスの音楽の素晴らしさを評した、ハンス・フォン・ビューロー(19世紀ドイツの大指揮者・ピアニスト)の言葉を見てみましょう。
サン=サーンスは素敵な音楽家だ! 彼のピアノ協奏曲第4番は、音楽嫌いの病を治療することができる。何とすばらしいサルドゥ(劇作家)的な技巧とエレガンスよ。何と素晴らしく万事に筋道が通っていることか、良識と感覚細やかな独創性、倫理と優雅さが何と相互に調和していることか。(1890年)
シュテーゲマン著/西原稔 訳「大作曲家シリーズ サン=サーンス」(音楽之友社刊・絶版)より
2021年に没後100年を迎えたサン=サーンスを、サン=サーンス・リスペクトな編集部が語ったライブ配信。
記事の内容に関する補足や、かなり不幸なサン=サーンス受容史、記事では紹介できなかった毒舌なお言葉も紹介しております。