指揮者は作曲家の翻訳者

また、その時のシンポジウムという場そのものにも、井上氏らしい皮肉が飛ぶ。「本当はこの場で議論したい」と、この堅苦しい書いたものを読み上げる形式に疑問を投げかけつつ、バーンスタインの《シンポジオン》という作品に触れ、音楽における遠慮のない“語り合い”の重要性を示唆していた。

演奏現場でのエピソードもいくつか披露した。30代の頃のN響や40代の頃の東フィルとの衝突。組織内の“ウソ”やあまりにも貧相な練習場に我慢できず、練習を中断したり公演を降板したり、「オブラートに包めず正直に発言してしまう性格」ゆえに苦労も多かったが、そこにも井上氏らしい誠実さがにじむ。

「僕は演奏家である前に“翻訳者”だと思っている」研究者が積み重ねた知見も、聴衆に伝わらなければ意味がない。そのためには、時には友人の音楽学者や主催者との“ケンカ”も。

奏でられる音楽の裏に隠された真実や人間くささを伝えることこそが、自分の役割だと考えている。

君もショスタコーヴィチだ!

最後に井上氏は、こう会場の若い人々に呼びかけた。「君もショスタコーヴィチだろう?」コンプレックスを抱え、ねじくれて、強がりながら、それでも逃げずに自分と向き合う。そんな不器用さこそが人間らしさであり、ショスタコーヴィチの音楽が強く人々の心を打つ理由だ、と。

「ショスタコーヴィチも、僕も、ねじくれてる。きっと、あなたもそうだよ」

その言葉は、笑いとともに会場を包み込み、音楽と人生をめぐる“共鳴”として余韻を残した。

寺田 愛
寺田 愛

編集者、ライター。女性誌編集、ECサイト編集・ディレクター、WEBメディア編集長、書籍編集長などを経て現在。はじめてクラシック音楽を生で聞いたのは生後半年の頃。それ以...