きのう、私は完全に自分を投げだしました。爆発です。愛の告白をして、怒らないでほしいと懇願して……。この告白に、彼は千の愛撫によって、肩や頬や頭を撫でることで、答えてくれました。どれほどの幸せだったか、とうてい言い表すことはできません。

告白が受け入れられたチャイコフスキーは、しばらくのあいだ有頂天で、ここに紹介するのもはばかられるような手紙を弟に書いたりしていたのだが、彼の気持ちは、翌年の5月頃には急激に冷めてしまった。コーテクの浮気性と、コーテクの指が変形していてその形が気に入らないというのが理由だった。

コーテクと破局後は結婚してスピード離婚

ちょうどそのころ、チャイコフスキーは、やはりかつての教え子だったアントニーナ・ミリューコヴァ(1848~1917)という女性から、愛の告白の手紙を受け取っていた。おりしも、チャイコフスキーのもうひとりの恋人だった男性が結婚してしまったこともあり、彼は、アントニーナとの結婚を決意する。結婚式は1877年7月に行なわれ、コーテクも新郎側の証人を務めた。しかし、この結婚はうまくいかず、早くも10月には破綻してしまう。

チャイコフスキーとアントニーナ・ミリューコヴァ(1877年7月撮影)
一緒に住んでいたのはわずか6週間だったといわれています。

……もうひとり恋人がいたくせにコーテクの浮気をどうこう言ったり、恋人としては終わったのに結婚式の証人になってもらったり、いったいどうなっているんだと思われるかもしれない。その疑問は当然なのだが、実は、この一連のできごとには、チャイコフスキーが性的に相当放恣だったことや、コーテクは、どうも本当は女性のほうが好きだったらしいことなど、さらに複雑な背景がある。だが、そちらに深入りするときりがないので、ここはともあれそういうことがあったのだと思っていただいて、本題に戻ろう。

コーテクと再会して過ごした楽しいひととき

結婚に失敗して傷心のチャイコフスキーは、同年末、長期間のヨーロッパ旅行に出る。この旅行の途中、彼がスイスのクラランという町に滞在していたときに、ベルリンに留学中だったコーテクが、チャイコフスキーに会うためにやってきた。彼は、新しい音楽の楽譜を、手土産としてたくさん持参していた。

その中で、チャイコフスキーはひとつの作品をいたく気に入った。3年前に初演された、エドゥアール・ラロ(1823~1892)の《スペイン交響曲》だ。交響曲という名前ではあるが、ヴァイオリン独奏が華やかに活躍するこの傑作を、チャイコフスキーは、コーテクと2人で、ピアノ連弾、あるいはヴァイオリンとピアノで、1日中弾いた。

ラロ:《スペイン交響曲》

チャイコフスキーは、3月3日(ロシア暦。以下同じ)付けの手紙にこう書いている。

私はこの曲から多くの喜びを得ました。この曲は、新鮮さと明るさ、小気味よいリズム、美しく、また見事に和声付けがされた旋律を持っています。

ヴァイオリン協奏曲を夢中になって猛スピードで作曲!

この手紙の2日後、3月5日の夜のことだった。彼は、作曲中だったピアノ・ソナタを中断して、ヴァイオリン協奏曲を書き始める。書きかけの作品を中断して別の新作に取りかかるなどということは、それまでなかったというから、突然の霊感の爆発だったのだろう。

作曲は猛烈な勢いで進み、10日には第1楽章、16日には早くも全楽章が書き上がった。しかし、コーテクと弾いてみた結果、彼は第2楽章がほかと合わないと感じ、書き直すことにした。新しい第2楽章も24日にはできあがり、30日にはフルスコアが完成した。作曲開始からわずか25日だ。最初に作ったアンダンテは、《なつかしい土地の思い出》の第1曲となった。

チャイコフスキー:《なつかしい土地の思い出》第1曲「瞑想曲」

その後、ヴァイオリン協奏曲は初演にこぎつけるまで苦労があり、批評家に悪口を言われたが、この曲が今やもっとも人気のあるヴァイオリン協奏曲のひとつとなっていることは、ご存じのとおりだ。

恋の再燃が作曲の原動力になった?

ヴァイオリン協奏曲が生まれるきっかけとなった2人の再会で、過去の恋がふたたび燃えあがったのか、それとも過去は過去として、よき友人、あるいは先生と弟子として会ったのかということは気になるところだが、そこは想像するしかない。

手紙には、チャイコフスキーはコーテクの指の形が相変わらず気に入らないというようなことを書いているので、恋愛感情はもうなくなっていたということもありうるが、なにかに取り憑かれたようなヴァイオリン協奏曲の作曲ぶりを見ると、やはりチャイコフスキーには、再会によって、なにか特別な感情があふれたのではないかと思えてくる。

1877年に撮影されたチャイコフスキー(右)とコーテク(左)。気になるコーテクの指はよく見えませんね。

さて、チャイコフスキーとともに不滅の名曲を生み出したコーテクだったが、その後の運命は気の毒なものだった。

1884年、ヴァイオリン協奏曲の完成からわずか6年後、コーテクは結核にかかってしまう。その年の11月、チャイコフスキーはスイスのダボスで療養していたコーテクを見舞った。コーテクは大いに喜び、声はしゃがれ、ひっきりなしに咳が出ていたにもかかわらず、昔と同じようにしゃべり続けたので、チャイコフスキーが止めなければならないほどだったという。これが2人が会った最後となった。

その年のクリスマス・イヴの朝、チャイコフスキーはかつての恋人の死を知らせる電報を受けとった。コーテクはまだ29歳だった。

増田良介
増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...