温泉水を飲むことは、ドイツ語ではトリンクハレ(Trinkhalle)と呼ばれ、バーのような場所で温泉水を飲みながら、湯治しにきた人たちと交流を持つ場としての役割も果たしました。そこには、ビリヤードやルーレットなんかも置いてあったそうです。日本の温泉旅館にある卓球のような感じかもしれませんね……!
こうして温泉文化も根強いヨーロッパですが、そんな温泉に縁の深い作曲家たちを、紹介いたします!
1685年にドイツの小さな街ハレで生まれ、同地で育ち、ドーバー海峡を渡ったイギリスはロンドンで活動した作曲家ですが、ロンドンでの生活は決して易しいものではありませんでした。異国の地で活動すると決めた矢先に、自分の音楽のスタイルが民衆に受け入れられなくなり、同業者からも冷たい目で見られるようになり、過度のストレスがヘンデルを襲います。その結果、脳卒中になってしまい、右半身不随になってしまったのです。
この治療のために向かったのが、ドイツ西部・アーヘン(Aachen)でした。この地は、古代ローマの時代より温泉地として有名で、アーヘンという地名もラテン語で水を意味する”aquae”に由来しています。
ヘンデルの伝記の著者ジョン・マナリング(1724〜1807)は、その伝記の中に、次のように記しています。
ヘンデルは、医者の助言を受けても、少しでも気に食わないことがあると、いうことを聞かない癖があった。そこでは、エクス・ラ・シャペル(アーヘンのフランス語名)の蒸し風呂(サウナ)に入ることが、この症状の治療に対する最適な方法であると助言を受けたのだが、彼は助言の3倍近く長い時間、そこに留まった。蒸し風呂がどんなものか知っている人なら、普通の3倍も長い時間入るということが、どれだけすごいことなのかがわかるだろう。ヘンデルは想像もできないほど大量の汗を流した。彼はこれを6週間続け、治癒したが、重い病気の患者の治療としては短い期間であった。
マナリングは、ヘンデルと直接関わりがあり、幼少期からのことをヘンデル自身から聞いて記録したとされています。なので、この記録にはある程度の信憑性があるでしょう。
ヘンデルは、こうして命懸けで「ととのう」ことで、病を治し、その後数々の名曲を生み出しました。ヘンデルの友人アントニー・アシュリー=クーパーによると、「
ヘンデル:歌劇《ファラモンド》〜第3幕よりフィナーレ
また、代表作となるオラトリオ《メサイア》も治癒後に作曲された作品です。これも、温泉の力のおかげかもしれません……!
ヘンデル:オラトリオ《メサイア》
幼い頃からヨーロッパ各地を旅した、モーツァルト。当時の移動は馬車でしたので、足も腰も、気も疲れます。そんなモーツァルトが、よく足を運んだのが、ウィーン近郊のバーデン(バーデン・バイ・ウィーン)という温泉地です。
モーツァルトがこの地で初めて温泉に入ったのは1773年、モーツァルトが17歳のときです。
3回目のウィーン旅行で、お父さんのレオポルトと一緒に入っており、レオポルトは「小さな街なのに、たくさんの温泉がある。バート・ガスタイン(ザルツブルク近郊の温泉地)と似た感じだけど、こっちの方が快適だ」と、書き残しています。
さらに1784年に、父レオポルトがウィーンに住む息子を訪ねた際にも、親子で温泉に入るべく、バーデンを訪ねています。
1789年から1791年の3年間には、妻のコンスタンツェと何度もバーデンを訪れています。これは、妊娠中のコンスタンツェが出産に備えて体調を整えるためで、大事をとって何週間も滞在したと明らかになっています。その際、コンスタンツェの温泉療養を世話し、モーツァルト夫妻のために自宅の一室を提供した、バーデンの合唱指揮者アントン・シュトルに、お礼として《アヴェ・ヴェルム・コルプス》を書きました。
モーツァルト《アヴェ・ヴェルム・コルプス》KV 618
3分ほどの短い曲ですが、本当に美しい曲です。モーツァルトは、この曲を書いてから半年後、帰らぬ人となってしまいます。
モーツァルト夫妻が、どのような温泉の入り方をしていたかの詳細な記録はありませんが、おそらく温泉に浸かって、サウナで整えて、温泉水を飲みながらビリヤードでもしたのでしょう……。
ベートーヴェンも、温泉地に何度も訪れた作曲家の一人です。特に、ベートーヴェンは体調を崩すことが多く、その治療のために温泉地へ行ったとされています。
当時ベートーヴェンが住んでいたウィーンからかなり遠いにもかかわらず、現在のチェコにあるカルロヴィ・ヴァリ(当時のカールスバート)には、湯治のために2回行っています。さらにその近くにある別の温泉地フランティシュコヴィ・ラーズニェ(フランツェンスバート)にも赴き、温泉地をはしごしていたことがわかっています。
そのベートーヴェンが、ヘビーユーザーとして長年滞在した温泉療養地が、ウィーン近郊のバーデン(バーデン・バイ・ウィーン)でした。1804年(34歳)より、何度か避暑地として、夏をこの地で過ごしましたが、年齢を重ねるごとに、目的が避暑ではなく、湯治になってきました。
1821年から1823年の3年間は、真剣に温泉療養を行なっており、弟には「体調が万全に回復したとは言えないけど、バーデンの温泉だけが、僕の今の健康状態を良くしてくれるものだと信じているよ……」と書き送っているほどです。
そして、この地で多くの作品を書き上げるのですが、あの交響曲第9番《合唱付き》も、ここで作曲された作品なのです。
ベートーヴェン:交響曲第9番 作品125《合唱付き》〜第4楽章
どの作曲家も、なかなかつらい思いをして温泉地に足を運んでいたことがわかりますね。しかし、ヨーロッパの温泉地は療養目的だったといえども、現在では普通に足を運んでリラックスすることもできます。
そこで今回は、ウィーンから電車で20分の小さな町、バーデン・バイ・ウィーンの温泉に実際に入ってきましたので、その様子を少しお伝えいたします!
まず、施設全体に男女の区別がなく、脱衣所も共用です……! これは、バーデン・バイ・ウィーンの温泉だけでなく、基本的にどこの温泉も同じです。ですので、まず水着を着用します。
そしてサンダルをつっかけながら先へ進んでいくと、大きなプールのようなものが広がっています。プールのように見えますが、れっきとした温泉です!
水温はだいたい26〜28度で、ぷかぷか浮いている人もいれば、真剣に泳いでいる人もいます。この泳いでいる人たちは、肩こりや背中の治療の一環だそうです。実際に入ってみると、かなりぬるい感じがしました。ぬるめの温水プール、という感じでしょうか。
その横には、露天風呂(露天プール?)がありました! 水温は34〜36度のコーナーで、入り口の部分に「20分浸かってください」と書いてあったので、言う通りに20分浸かってみました。ちなみに、筆者がこの温泉に行った日の外気は4度で、しっかり着込んでも寒さを感じるくらいの気温でした。
そんな寒さなので、露天風呂に入ってもやはり心地よさより、顔で感じる寒さのほうが勝ってしまいます。もう少し熱いだけでも、きっと違うんだろうなぁと思っている間に、あっという間に20分が経過しました。
次に向かったのは、サウナコーナー。お湯に浸かる温泉コーナーでは水着でしたが、こちらは水着の着用が禁止です。
複数のサウナがありましたが、一般的なサウナとは少し違い、温泉水の水蒸気が部屋中に充満しており、室内の湿度は常に100%が保たれていました。室内温度は40〜60度のものが多く、場所によってアロマの香りがあったり、部屋に使われている石の素材が違ったりしていました。室内温度が95度まで上がるフィンランド式のサウナもありましたが、湿度は6〜15%だと表示されており、このサウナにはお客さんがあまりいませんでした。
40度程度のサウナは、「これがサウナ?」と思ってしまうほど居心地がよく、快適でしたが、部屋の外に出ると、たしかにたくさん汗をかいていることを実感しました。サウナコーナーには、冷水プールも用意されており、サウナから出て、そのまま冷水プールへ直行する方もいっぱいいらっしゃいました。
こうして、温泉に入ってから、あっという間に約2時間半経ちました。温泉もサウナも、日本と比べるとぬるいので、長く滞在できてしまうのです……。
「でも、そんなにぬるくて、本当に効果はあったの?」と思われるかもしれません。温泉から上がって、寒い外に出ても体がとてもポカポカしているのを実感しましたし、次の日の朝も、睡眠の質の高さを実感しました。
毎日毎日、作曲や演奏活動に追われて大変だった作曲家たちも、たった1日でもこんなに効果が実感できる温泉には、何度も来てしまうよなぁ……と、肌で感じました!