ところで、私はいま横光利一の「春は馬車に乗って」という短い小説に取り憑かれて繰り返し読んでいます。文筆家の男と不治の病を患った妻が(これには作者自身の経験が投影されていると言われています)冬から春にかけてともに過ごすなかで、現実と向き合い、葛藤し、受け入れていく物語。いわゆる「サナトリウム文学」のひとつにも数えられるテーマを持った作品です。
この作品はいくらか客観的に「ひとごと」な語り口で紡がれます。たとえば近いテーマを持った堀辰雄の「風立ちぬ」で抒情的な描写が広がるのとは対照的に。不治の病に侵されるという絶対的な運命のなかで、ただ自然に運命の影が近づき、現実を受け入れ、諦めていく、というただそれだけの羅列が(ただそれだけであることが)結果として読み手の感情を大きく揺さぶることに繋がっているように思えます。「人間が運命を動かすのではない」ということをあらためて感じさせる冷たさ、揺らぐことのない時と運命の流れが、我々の心のなかに残酷なまでの美しさを映し出すのです。
私にとってシューベルトの(特に晩年の)作品は、まさにこの世界観に近いものだと感じられます。楽譜に書かれた要素をまさに「必要なタイミングで」「必要なだけ」正確に提示すること、そして絶対的に揺らがない時間軸(テンポ)を保つことが求められ、なにか演奏家が自らの想像力によって「必要のないもの」を加えてしまえば、この作品の精神性は簡単に崩れ落ちてしまうように思えるのです。
フランスの哲学者ドゥニ・ディドロは「俳優についての逆説」のなかで「優れた俳優に備わっているべきものは『感受性の絶対的欠如』であり、舞台での俳優の涙は、彼の心からではなく、彼の頭脳から流れ落ちるものでなければならない」と述べていますが、これは音楽にも通ずるものがあります。シューベルトに限らずショパンやラフマニノフなどをはじめとする少なくない作品においても同じように、演奏家は自らの感情を意識的にシャットアウトして、頭脳によって音楽を理想的な形にコントロールしなければならない瞬間があるのではないか、なんて思ったりしています。
シューベルトは7月に演奏することになっているので、心して学んでいきたいと思っているところです。