目指せバイロイト!…の前に、ワグネリアンになれるのか問題

編集部K  ワグネリアンの人たちが、バイロイトで天にも昇る気持ちになるのはわかる気がしますが、まずはワグネリアンにならないことには、そもそもバイロイトを目指さそうという気にはなれないですよね。ワーグナー・ファンの方たちは、どこをどう注目ポイントにしていて、聴いているのでしょうか。「ここがたまらない!」みたいなところを教えてもらいたいです。

広瀬 どこかな……どこもなんですが。じゃあ、そうだな、まずは交響曲ひとつ聴くようなつもりで、《ワルキューレ》の第1幕にトライしてみることをおすすめしたいと思います。登場人物は3人。合唱なし。場面が4つぐらいにわかれていて、交響曲のように聴けます。それぞれの場面でやっていることや、歌われている内容までは、まずあまり気にしなくても、最後に長大な盛り上がりポイントがあって、心を持っていかれる音楽で終わります。

だから演奏会形式でも《ワルキューレ》の1幕だけ取り上げられる機会ってわりとありますね。70分ぐらいです。オーケストラ曲好きの人がまず聴くにはよいかと思うんです。

ワーグナー:《ワルキューレ》第1幕

 

編集部M その、「歌われている内容は気にせず」っていうのは、いいんですか? 気にしなくて。

広瀬 だって、内容を気にしすぎると、肝心の音楽がよくわからなくなっちゃうでしょう? まずはコンセプトや内容は度外視して、とりあえず、ワーグナーの音楽に親しみましょう、と提案したいです。

飯田 幸か不幸か、外国語の言っていることがわからなければ、言葉の響きも音楽の一部と捉えながら聴いちゃってOKということですね。

編集部K  コンセプトが苦手って言い始めるともう絶対に入れなくなっちゃうので、確かにまずはそこをちょっとはずしておこう、と。

広瀬 まずはそれでいいじゃないですか。で、次のステップで、この人何歌ってんだろう? って知りたくなったら調べればいい。

でも、知るとドン引きするかな……。一応説明しておくと、《ワルキューレ》第1幕は、生き別れたお兄さんと妹が出会うお話。その妹は、DV気味の男性と幸せではない結婚生活を送っている。そこへ嵐の中、ちょっとかっこいい兄が突然やってくる。妹は一目見ていいなと思う。その後、家に帰ってきた妹の旦那がその男の人と話していると、どうやらその男は自分たちが探していた仇であると知る。妹の旦那は怒って、そのイケメンと翌日決闘することにして、部屋に閉じ込める。この妹が暮らす家の中には大きな木があって、そこに神である兄の父(もちろん妹の父でもある)が刺した剣があるんです。それは約束された、本当の英雄にしか引っこ抜けない剣。妹は旦那を眠り薬で一晩眠らせ、やってきたイケメンと話していると、どうやらふたりは生き別れた兄と妹だと判明。兄は、これはオレのための剣だ! って見事に引っこ抜く。2人は愛してるわ、愛してるよ、と。そこからは人に見せられないシーンになるので、急速に幕が降りる。

ワーグナーの胸像をなでなでする広瀬先生

一同 ……。

広瀬 身も蓋もない話かもしれないし、近親相姦に関するクレームはとりあえずこの人(ワーグナー)に言ってほしいんですけど。

飯田 いえ、あの……「禁断の」みたいなところには、今も昔も人は魅力を感じると思うのですが。

広瀬 19世紀のほとんどのオペラ、その題材はみんな不倫なんですよね。これもある種の不倫の話とも言えなくはないけど、近親相姦を真正面から取り扱っているオペラは、神話以外では多分他にほとんどない。あ、これももとは神話ですけどね……。これもある種の不倫の話とも言えなくはないけど、近親相姦を真正面から取り扱っているオペラは多分他にほとんどない。そこはやっぱり引かれるポイントかも知れないんですが。でも、そこにこそ純粋な愛の形があるのだと、ワーグナーは多分考えた。前半は室内楽的な音楽の美しさが際立ち、後半は迫力あるオーケストラが、兄と妹の陶酔をこれでもかと描きます。

編集部M あの、《ワルキューレ》が好きな人は、そういう物語も含めて感動してるんですか?

広瀬 第2幕と第3幕のあらすじ、さらに指環全体の物語も知れば、これが単なる身も蓋もない話ではない、ということはご理解いただけると思います(笑)。感動するというのとは違うかもしれないけれど、やっぱり音楽に説得されちゃうんですよね。

ブルックナーのときに話した「音圧で説得されちゃう部分がある」のと少し繋がってくると思うんですけど、例えば剣を引っこ抜くところとかは、わかっているけれども、毎回ウルウルしちゃう。ウウッと力を込めて抜くシーンの、ウウッという音楽の説得力が、いつ聴いても胸熱。心が弱ってたりすると、聴いてて本当に泣いちゃうくらい。私はもう、何百回いや何千回レベルで聴いていますが、それでも、わかっていても、毎回ぐっと来ちゃうんですよ。それだけの音楽の説得力があって、それはちょっと他の作品、他のオペラでは、滅多に味わうことはできない。

編集部K  そういえば、僕も音楽だけで感動したオペラはワーグナーで、《ローエングリン》の結婚式の行進のシーンですね。パリのオペラ座でしたが、音が上から降ってくるみたいで。あの音響を作れるオーケストレーションをしてるっていうのは、すごいなと。なので、どこか自分は好きになる素質があるかも……、でもちょっと近づかないようにしてる(笑)。

飯田 素質があったら怖い?

広瀬 Mさんが前回、ブルックナーのときに仰ってましたよね、愛の反対は無関心だって。ですから、Kさんはちょっとワーグナーに近いところにいますね。

音楽の説得力と物語の厚さと

飯田 音楽として聴くだけでもいいけど、物語を知ったうえでまた聴くと、やっぱり厚みは出てくる、と。

広瀬 出てきますね。ワーグナー以前のオペラって、割とちゃんと形式化されてるじゃないですか。アリアがあって、レチタティーヴォがあって。アリアにはちゃんと起伏があり、歌手の最高音とか、わかりやすい聴かせどころがある。たとえば歌手の最高音だったり。一番の盛り上がりを、わかりやすく作ってくれている。でもワーグナーはそういうお約束ごとを全部なくし、ドラマの流れを最重要視しちゃったので、ちゃんと集中して聴かないと、どの部分が聴かせどころかもわかんないんですよね。「ながら聞き」が最初のうちはできない。

編集部M でも確かに「剣を抜く」っていうピンポイントの場面と音楽があるというのは、ちょっといけるかも! って思いました。

飯田 やっぱりブルックナーの交響曲と共通して、長大な作品を通して作曲家が言いたかったことをちゃんと受け取るには、それなりにまとまった時間が必要ですね。現代人がその時間を確保するにはモチベーションも必要で、好きになる以前の問題はありそう。

広瀬 やっぱりワーグナーの作品が長くなっちゃう一つの理由は、舞台上では演じられない、物語の出来事に対して、ある登場人物がその説明を長々としてくれちゃうところにあると思うんですよ。実はこういうことが起きてね、こうこうこうだったんだよ、みたいな。これはわりとオペラの歴史においては画期的な工夫なんですが、それが10分とか下手すると20分ぐらい続くんですよ。それを延々と、しかも抑揚があんまりない音楽なことが多いので、そういうところではみんな寝ますよね。私だって体力的にちょっとつらかったりするとうつらうつらするかもしれない。いや、しないな(笑)。でもそういう場面もある。

編集部M バランスっていうか、聴く人のことを考えてくれない……。

広瀬 でもヴェルディなんかは省きすぎですよね。《イル・トロヴァトーレ》なんて、第2幕が終わったあと、次の第3幕で話が全然繋がらない。説明が一切ない。ワーグナーはそういうことはないです。

編集部K  ここでワーグナー対ヴェルディ論争になっちゃう!?

編集部M ワーグナーは、逆に親切なんだって思いながら聴けばいいのか。

飯田 まぁ、どっちもバランスは良いとは言えないんでしょうね。

広瀬 うん。偏りすぎちゃってるところはあります。優先順位とか効率とか考えてはいない世界。絶対に自分が言いたいことをとりあえず全部入れて、結果的にひとつの幕が2時間になっちゃいました、みたいな。

飯田 広瀬先生は、ワーグナーがだんだん聴けるようになったんですか? それとも何かきっかけがあって聴けるようになった?

広瀬 ワーグナーは最初っから普通に聴けましたね。それこそ今日お薦めした《ワルキューレ》からです。とりあえず第3幕の初めの「ワルキューレの騎行」が有名ですが、よくオーケストラでここだけ切り出して演奏される。でもあれがどうやら、その後もずっと続いている音楽らしいと知り、だったら聴いてみたいと。その好奇心だけで聴き始めたら、何これ超かっこいい! となって。『指環』がどういう話かも知らず。

私は高校時代にはベートーヴェンとかショパンとか家でピアノで弾いていた青春を送っていましたが、こんなに、ピアノの世界とは全然違う音楽があるの? もっと聴きたい! と思って、突然ワーグナー弾き始めました(笑)。

ワーグナー:《ワルキューレ》第3幕「ワルキューレの騎行」

飯田 じゃあ、切り出しから聴くのもアリですね。

広瀬 アリです。その日、聴ける時間が20分しかなかったら20分だけ聴けばいいと思います。

飯田 全部通してこそ、良さがわかる、みたいに言われることもあるけれど。

編集部M 話もわからないのに聴いちゃダメ、とかもね。

広瀬 そういうことを言う面倒くさい人が、昔は多かったんですよね。でも、もうそういう時代じゃない。大丈夫。聴きたいように聴けばいいんですよ。

(おもむろにスマホを鳴らす)

これ、剣をぬくところです。

(抜くまで長い……)

つかんだ……抜きます……

……はぁ。今ちょっと涙ぐみました。

ワーグナー:《ワルキューレ》第1幕より剣を引き抜き、ジークリンデと結ばれる場面
剣を抜くのは2分50秒頃

編集部K  この時代に、こんなこと言うとジェンダー的に問題ですが、やっぱり「男子が好き」な感じの音楽。

広瀬 同じ音楽を聞いて女性がどう感じるかみたいなことは私にはわからないですが……。ワーグナーにハマっている女性も身のまわりにはたくさんいますよ。多分(笑)。

私はもう永遠に中2男子のままなんだろうなと思います。今年もう50なんですけど。ワーグナーの沼からは、きっと一生抜けられないでしょうね。抜ける気もないですが。

ブルオタ、ワグネリアン、マーラー愛好家
広瀬大介
ブルオタ、ワグネリアン、マーラー愛好家
広瀬大介 音楽学者・音楽評論家

青山学院大学教授。日本リヒャルト・シュトラウス協会常務理事・事務局長。iPhone、iPad、MacBookについては、新機種が出るたびに買い換えないと手の震えが止ま...

司会・まとめ
飯田有抄
司会・まとめ
飯田有抄 クラシック音楽ファシリテーター

1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...