それならば、n-buna自身も本作で「盗作」しているのではないか? と気になるところだが、彼はそれについてあえて明かしていない。とはいえ、n-bunaは本作に限らず、文学作品の引用・オマージュを行ってきた張本人ではあるのだが。
しかし、作品主義の彼にとってそんな議論は不毛だ。唯一わかりやすく引用しているクラシック作品についても、「サービス」と述べているくらいだ。
ところが、ここにクラシック作品が確かに存在することで、奇しくもクラシック音楽における「盗作」や「芸術の価値」まで問われているような気を覚える。
影響、引用、オマージュ、盗用。この区切りは非常に曖昧だ。しかし、これらをすべて大きく引っくるめて「盗作」とするならば、クラシック音楽も盗作なしには発展し得なかった。
例えば、グリーグ。故郷の民族音楽に影響を受け、自作として昇華させている。ベートーヴェンも、自作にハイドンやバッハの旋律を借用している。これらは音楽泥棒のいう「盗作」にあたるのか。
そして音楽泥棒が破壊に美しさを感じたように、クラシック作曲家にもその役割を担った者がいる。「音楽は耳を澄まして聴く芸術」という美学を壊そうとしたサティも、その一人だ。
そうして現代ではすっかり古典となった作品たちが、ヨルシカの新しい表現方法における盗用対象となっている。コラージュの一部にされた《月光》や、ビートの強いポップスサウンドになった《朝》や《ジムノペディ》を聴いて、どう思うか。「盗作だ」と罵る者はいるだろうか。
こうした問いかけをすることすら、「沸き起こる議論や反応を見ることこそが作品の本質」と話したヨルシカの目論見通りなのかもしれない。
ベートーヴェン、グリーグ、サティの作品が引用された作品たち