森垣 芸大和声との違いをチャイコフスキーの作品と関連させながら3つ挙げると、1つは管弦楽の響きです。チャイコフスキーのそれは透明で色彩的だとよく言われますが、和音の配置と連結の美しさが影響していると思います。
チャイコフスキーの『実践的和声学習の手引(以下、手引)』では、『理論と実習』よりも厳しい禁則を課している点がいくつかあり、例えば内声の並達を禁じています。『理論と実習』では、内声の並達五度・八度は禁じていません。
また、属九(※7)の和音の使い方は『理論と実習』では様々な転回形が可能になっていますが、『手引』では基本形しかなく、ソプラノであっても予備(※8)が必要とされています。『理論と実習』では予備は要りません。その代わり、『手引』で属九を使う時は、VIIの七の和音として使います(※9)。これは『新しい和声』と同じ考え方で、属和音の考え方に関して大きく異なる点です。
チャイコフスキーの作品では、オーケストレーションの声部の書き方の透明性は厳格に図られていて、それが彼の管弦楽法の特徴になっています。
※7 属九:七の和音の原型の上に、根音から数えて九度の音(第九音)を付加すると、九の和音の原型ができる。
※8 予備:いずれかの音が先行和音から保留されることを「予備」という。
※9『和声 理論と実習』では、VIIの和音は用いず、viiが根音にあった場合は、属和音の第一転回形として扱う。vii – ii – iv – viは「属九の根音省略の第一転回形」となる。
♪バレエ組曲《くるみ割り人形》〈小さな序曲〉前半
弦楽器の「音の配置と連結、重ね方」に細心の注意が払われています。和声の学習は禁則を覚えるのではなく、このような明快で美しい響きを実現するためのものです。(音楽之友社「ミニチュア・スコア」解説部分を参照)
森垣 2つ目は、減七の和音(※10)、増五の和音(※11)、増六の和音(※12)などに関してきちんと1つの章を立てているところです。日本では増五の和音はまったく扱っていません。
減七、増五、増六などは、いくつもの調性に関わる不安定な和音で、異名同音(※13)でどこに転調するか分からないような和音です。即興演奏の世界や、ワーグナーのトリスタン和音(※14)のような近代へ向かう後期ロマン派の和声です。チャイコフスキーはこれを自作で頻繁に使っていますが、彼の手の内にこれらの和音があったことが反映しているのだと思います。
※10 減七の和音 : 根音、短三度、減五度、
※11 増五の和音:『手引き』では「増五度を含む和音」として紹介され、「増三和音」、「増五度を含むドミナント和音」、「長七度と増五度を含む七の和音」がある。
※12 増六の和音:増和音の一種で、2つの外声間、あるいは内声と外声に増六度をもつ和音。
※13 異名同音:音名や記譜法は異なるが、平均律においては実質的に同じ高さをもつことになる音のこと。
※14トリスタン和音:ヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》で用いられた特徴的な和音。
♪バレエ組曲《眠れる森の美女》より〈序奏とリラの精〉前半
冒頭の1小節目から「増六の和音」が、3小節目から「減七の和音」が現れます。その不安定な和音と半音階等が、悪(妖精カラボス)を表現しています。(音楽之友社「ミニチュア・スコア」解説部分を参照)
3つ目は、偶成和音。ここでは刺繍音や持続低音の章で扱われ、半音階的な動きなどが色彩的な効果を生んでいます。これはチャイコフスキーの作品だけではなく、シューマンなどのロマン派に多く見られる和声だと思います。
♪バレエ組曲《くるみ割り人形》より〈花のワルツ〉序奏
2小節目と6小節目に、美しい「偶成和音(刺繍和音)」が現れます。また序奏(第1〜33小節)は、すべて属音の「持続低音」上に作曲されています。(音楽之友社「ミニチュア・スコア」解説部分を参照)