東京藝術大学の古楽科の大学院入試には、通奏低音の試験があり、僕は入試準備をきっかけに通奏低音を学び始めました。そして古楽科に入学してからは、アンサンブルの授業で旋律楽器や声楽の友人と、チェンバロやフォルテピアノで通奏低音を実践することができました。
古楽科の授業での実践が、僕にとって通奏低音体験のスタートラインでした。下手な通奏低音を奏でてしまうと、旋律楽器や声楽の人は音楽をのびのびと演奏できなくなります。一方、素晴らしい通奏低音は、旋律を奏でる人間の潜在能力にも大きな刺激を与え、最高のアンサンブルを生み出すことができます。
ところが通奏低音は僕にとって「もっと上達したい!」と思えば思うほど、難しく感じられるものでした。なぜなら当時僕は典型的な右手優位、
バス声部を主体として音楽を捉えるという感覚が乏しいことが、僕の場合は通奏低音の学習をきっかけに浮き彫りになりました。正直なことを言うと、僕は自分の左手にも意識を持って音楽と向き合えていると思っていましたが、「和声を実際に鳴らさないで、バス声部のみで作品のすべての情報を内包できてしまう」ほどには、左手の雄弁さを身につけていませんでした。
つまり、美しい花を咲かせ、綺麗な草や木々を芽生えさせていると思いこんでいたのに、それらが根を下ろしていた土壌は栄養が乏しく、花や草木をよくよく見ると栄養不足でひなびていたのです。
自分の欠陥を見つめる作業は苦しいものでもありますが、その後の成長の可能性を思うと喜ばしいことでもあります。僕の中で左手やバス声部への意識は、20代の頃と30代ではかなり大きく変わってきました。これからも年を重ねるにつれて自分が変化していくことが楽しみです。
歌手や旋律楽器の方が自由に音楽ができるように通奏低音や伴奏を
ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者として第一線で活躍するジェローム・アンタイ(1961〜)は、フォルテピアノ奏者としての顔も持っており、ハイドンやモーツァルトのピアノ・ソナタ集のCDも出しています。その録音の左手の表情の豊かさには圧倒されます。普段ヴィオラ・ダ・ガンバも演奏しているからなのか、バス声部への意識の注ぎ方が半端ではなく、和声感豊かなドラマティックなハイドンとモーツァルトを体現してくれています。これがハイドンやモーツァルトの音楽の本質の一つなのだろう、と納得せざるを得ません。豊かな大地があれば、美しい自然が生まれるということでしょう。
ジェローム・アンタイ「ハイドン:ピアノ・ソナタ集」