自由で強烈な音楽が生まれる秘密とは?~「マタイ」の衝撃

――演劇的に自然という意味では、「マタイ受難曲」のときに群衆がイエスを罵倒したり打ったりするシーンがありますね。神聖なる名曲というイメージの曲ですが、アントネッロの演奏だと、格調高いということよりも、醜さもそのまま出している印象がありました。ドラマとして優先することがきっとあるんだろうなと。

常に音楽は美しくなければいけないというのも正しいのかもしれませんが、美しいよりももっと重要なことがあるように見えたのですが。

濱田 そうですね、美しいというのがもしもいちばん重要だったとしても、その直前直後との比較で、そうでないところを作った方がいい。(笑)

彌勒 闇があるから光が際立つ、みたいな。結局バロックの美術が、まさにそのコントラストをすごく強調した様式だと思いますが、それを濱田先生は音楽的にきちんと提案してくる。

その一方で、例えば「マタイ」のイエスの死のあとで、百人隊長をはじめとする人たちが、「まことに、この人が神の子であったのだ」(「マタイ受難曲」第63b曲)という、あそこに頂点を持ってきた。舞台で演奏しながら、僕なんか実はプロとしてその瞬間失格だなと思いつつ、もう涙が抑えきれなくなってしまって。

――あそこは演奏次第では、さらっと1行で終わるところじゃないですか。それをあれほど美しく壮大に強調したということにショックを受けましたし、あの場面は、神への愛と燃えるような信仰心を、クリスチャンでもない自分までかき立てられるようで、聴いていて本当に泣きそうになりました。

彌勒 あのときは濱田先生のエネルギーもすごくて、僕はある意味、あの表情を見てやられた。指揮者としての伝え方も、バトンのテクニックだけじゃない。完全に音楽の化身みたいになってそこに存在していらっしゃる。

濱田 もう自分はあそこがクライマックスなのが当然な感じになってしまっていて。ただ、8分音符を倍全音符に書き直しています。(笑) そうでないとできない。

――クラシック音楽の考え方でいうと、バッハが書いた楽譜が絶対的な原典で、勝手に音価を引き延ばすなんてとんでもないということになりますよね。それを書き直すというのは、中世・ルネサンス音楽でのやり方があるからできることなのですか?

濱田 譜面というものに対する考え方が圧倒的に違うんです。

彌勒 でもその責任は多分、こちらにあるでしょう。つまり、クラシック音楽のアカデミックな教育をずっと受けてきた人間が、濱田先生のアイデアを実現するためには、楽譜から書き直してあげた方がわかるであろうと先生が考えてくれている。

だから、8分音符をこういう風に演奏するんだ、エネルギーをこうやって持っていくんだと説明するために、楽譜の時点で書き直してくれている。

インプロビゼーション(即興)のやり方も教わってこなかった、そういう教育の上で作られたミュージシャンを集めて、濱田先生のアイデアを実現させるための工夫の1つなのだと思います。

濱田 小節線を完全に引き直していますが、それによって全部矛盾が解ける感じと、それから、わざとそこに作曲家が小節線を引いている理由も発見できる。バッハの研究はすごく多くの方がなさっていますが、多分僕が初めてじゃないですか。小節線を変えたから分かったなんて言うのは。(笑)

「リナルド」の公演では、彌勒さんが「全身の毛穴から音楽が出ている」と表現する濱田さんの指揮にも圧倒されそう