——ピリオド楽器コンクールでは奏者がさまざまな工夫を凝らして演奏されていました。装飾の入れ方もそうですが、左右をずらすスタイルもかなり評価が分かれる点ですよね。
青柳 ジャン=ジャック・エーゲルディンゲルの『弟子から見たショパン』を読めば、ショパン自身の演奏も左右がずれていた可能性があることがわかるのですが、とくにモダンピアノを中心に演奏される審査員の方には気になってしまうところのようです。20世紀のショパン像は、自由になりすぎた19世紀的なスタイルへの反動から生まれたものですが、その規範から外れることを危惧されるのかもしれません。
川口 そもそもショパンの作品は、左手が伴奏音型で右手がオペラ歌手のように歌うパートが多く見られ、それぞれがまったく違う役割を奏でていますから、ずれるのは当然のことだと思います。ただ、“ショパンの時代はずらしていたから……”ではなく、結果的にそうなる、というのが重要です。反対に、重厚な和音が続くような箇所ではそれがバラけてしまうとやわらかい性格になってしまいますから、しっかりと揃えて弾く必要があります。楽想のキャラクターごとにどのような弾き方をすべきか、ということを考えていかなければなりません。方法論よりも、そこで求められる音楽を考えることで自然と答えは出るはずです。
青柳 ベル・カントの歌手の伴奏をするときと同じですよね。緩急をつける歌い手に合わせすぎると、かえって音楽は不自然になってしまいます。ピアニストが厳格にテンポやリズムを守って演奏することで歌手は自由なインスピレーションのもとで歌うことができるのです。これはショパンの作品を演奏する際の左右の手にも言えることですね。
川口 その通りだと思います。また楽器の特性も関わってきますね。チェンバロは音量がコントロールできないから、和音のずらし方によって、強弱のニュアンスまで作ります。ショパンもチェンバロを弾いていた可能性は高く、18世紀の鍵盤
チェンバロを弾くと、もっと広い範囲、広い視野で、結果的にずれることがたくさんあるんです。音色作りのためにずらすこともあるので、チェンバロでバロックのいろいろな作品を弾いたうえで古典やロマン派の作品を弾いてみると、また全然違う見え方がすることもあります。
このずれに関しての論争って、ずれるか・ずれないかが目的ではなくて、音楽ありきで、その音楽を追求して結果的にずれてくるということだと思います。
青柳 もちろん、何でもかんでもずらせば良いというものではないですが、一概に“ずらして弾くのはだめ”と言われてしまうのも問題だと思います。モダン楽器では、左手と右手が一緒になって動くやり方で習ってきた方が多いのですが、安川加壽子先生は、例えばショパンを弾くときでも、まず左手だけ練習し、 そこに右手を乗せるようにと仰いました。先生は1920~30年代のパリでピアノを学ばれたので、「手の独立を重視する」伝統がまだ残っていたのだと思います。