ルターが音楽面で行なった最大の「改革」が、母国語、つまりドイツ語による会衆のための聖歌、「コラール=讃美歌」の創造である。ローマ・カトリック教会の礼拝はすべて聖職者の言葉であるラテン語で行なわれており、つまり一般の信徒にはちんぷんかんぷんだったのだが、ルターはこれを母国語にした。
ルターはもともとカトリックの修道僧だったが、カトリック教会の腐敗を追及するうちに、神と信徒の間に修道僧や司祭のような「聖職者」が存在することに疑問を感じ、神と信徒が直接向き合う「万人司祭」という考えに至って、ドイツ語で礼拝を行なうようにしたのである。新約聖書をドイツ語に訳したのは、誰もが聖書を共有できるようにするためだった。
さらにルターは、礼拝の音楽の大半をドイツ語に変え、信徒が歌うシンプルな「讃美歌」を礼拝に導入した。教会の楽団や合唱団が演奏する伴奏付きの声楽曲に加え、オルガンで伴奏される讃美歌、つまり「みんなの歌」が、礼拝を飾ることになったのだ。ルターは自ら、讃美歌の作詞作曲もしている。
ルターが作詞作曲した讃美歌のひとつ「神は我がやぐら」
1524年、ルターは友人の音楽家ヨハン・ヴァルターと組んで、初の『讃美歌集』を出版する。『讃美歌集』はルター派地域の学校における重要な教材となった。バッハが最初に手にした音楽教材も『讃美歌集』だった。
ルター派の礼拝に潜り込むと、「讃美歌」の威力を思い知る。礼拝の途中で信徒が何度も讃美歌を歌うのだが、そこにみなぎるのは信仰がもたらす力強さだ。上手い下手を超えて神を讃美する「みんなのうた」。それを聴いていると、ドイツを「音楽の国」にした原点はここにあると痛感する。
讃美歌は実際、ドイツ音楽の豊かな水脈になっている。ルター派のオルガン音楽や教会音楽のベースは讃美歌だし、ドイツ・リートの源泉も讃美歌と言っていい。
バッハの音楽にも、隅々まで讃美歌が浸透している。オルガン・コラール、教会カンタータ、受難曲……それらすべてに、コラール=讃美歌は毛細血管を流れる血のように浸透している。
J.S.バッハ《心と口と行いと生活で》BWV147(教会カンタータ)
《マタイ受難曲》も、およそ3分の1はコラールでできている。十字架上のイエスが息を引き取ったあと、それをしめやかに悼むのも受難のコラールなのである。
J.S.バッハ《マタイ受難曲》~第62曲 コラール「いつの日かわれ去り逝くとき」
J.S.バッハ《ああ主よ、哀れなる罪人なるわれを》BWV135(コラール・カンタータ)の終曲。上記の《マタイ受難曲》第62曲と同じコラール旋律が使われています