ブルックナーを語るうえで、リヒャルト・ワーグナー(1813〜1883)との関係は切っても切り離せないでしょう!
それはブルックナーが30代の頃、彼が作曲を習っていたオットー・キッツラーが、ワーグナーの音楽をブルックナーに勧めたことに始まります。これによりブルックナーは、まず《タンホイザー》《さまよえるオランダ人》の楽譜を手にいれ、熱心に勉強を始めます。
そして1863年(39歳)、実際に《タンホイザー》のリンツ初演に立ち会い、衝撃を受けたのです。1865年には、ミュンヘンで行なわれた《トリスタンとイゾルデ》の初演をなんとしてでも観るべく、はるばるリンツから赴き、そこでワーグナーに初めて出会ったのです。
しかし、ブルックナーにとって、ワーグナーは常に神のような存在であり続けました。1873年(49歳)に、交響曲第3番を捧げたのちも、ワーグナーの歌劇が上演されるとなれば、そこにはブルックナーの姿がありました。
こうして1882年(58歳)に、ワーグナーの《パルシファル》が初演される場にもブルックナーは現れました。このときの様子を、友人に次のように宛てています。
すでに病を患っていたワーグナーだったが、私の手を取り、「心配しないでください、私は君の交響曲を、そしてすべての作品を演奏するよ」と言ってくれた。私は「おお! マイスター!」と答えると、彼は「《パルシファル》はもうお聴きになられましたか? お気に召しましたか?」と尋ねてきました。私は握ったままのワーグナーの手にキスをし、「マイスター、私はあなたを崇拝しています」と返すと、ワーグナーは「せめて落ち着いてください……ブルックナー……おやすみなさい!」と。これが最後の言葉になってしまった。
(1891年2月11日、ハンス・フォン・ヴォルツォーゲン宛)
この手紙にある「崇拝しています」という言葉は決して誇張ではなく、実際にドイツ語で神様に対して用いる「崇拝する」という意味の「anbeten(anbethen)」が使われており、ブルックナーがどれほどの想いをワーグナーに抱いていたかがよくわかります。
ワーグナー:《パルシファル》第1幕 前奏曲
この想いは、実際に作品に投影されます。
ワーグナーの死期を感じて書かれたとされている、ブルックナーの「交響曲第7番」の冒頭には、《ラインの黄金》の冒頭にとても似たフレーズが使われているうえに、第7番以降の交響曲には、ワーグナーが採り入れた「ワーグナーチューバ」という楽器が使われています。
ワーグナー:《ラインの黄金》より「前奏曲」
ブルックナー:交響曲第7番より第1楽章