作曲者のように演奏し楽器を通して音楽という言葉と繋がってほしい

——ピリオド楽器で演奏することで、ショパンのどのような一面が浮かんできますか?

コッホ この質問については、私の個人的な答えを書かせていただきます。ショパンは、常に楽器と対話しながら、語り、歌い、踊っています。私の考えでは、ショパンの様式上の基準や要求は、歴史的な楽器において、よりハッキリとします。ショパンが私たちのもとに理想的な姿で現れるのです。

私が望んでいるのは、コンクールにおいて、ピアニストたちがもっと作曲者のように演奏し、楽器を通して音楽という言葉と繋がることです。そうすることで、ショパンの多彩なパーソナリティーが、より明らかになるはずです。ショパンの心理状態や様子が、まるで直に見聞きするかのように、ありありと感じ取れるようになるでしょう。そうした感覚は、高い音楽的な感受性を前提にしています。そして、演奏者の直感が、アプローチの鍵となります。

コッホ 私はショパンの音楽を日記帳のように読んでいます。その日記帳は、諦念と陶酔の狭間で、まるで鏡に映っているかのように、あらゆる心情を描き出してくれます。私がそれを発見したのは、15年前に初めてプレイエル・ピアノの前に座ったときでした。私にとってもっとも美しく魅力的な発見でした。というのも、私は突如として我が家にいるかのように感じたからです。そう、まるでショパンの生み出した桃源郷にいるかのように! それを的確に表す言葉は見当たりません。

即興は音楽だけでなく人生においても私たちに欠かせない力

——ショパンコンクールでは即興的装飾に関する指示がありません。装飾音についてはどのようにお考えですか。

コッホ  私が好きなのは、あなたが書いておられるように、装飾が常に即興で弾かれているように響くことです。それ自体が、すでに芸術の一形態だからです。装飾をどう受け止めるかは、私の経験に従えば、コンクールの審査委員会の中でも意見が分かれるところです。

声楽において、装飾の必要性は、自明のことです。ベッリーニが作ったベルカント歌唱の音楽の素晴らしいカンティレーナ(シンプルな旋律)を思い起こしてください。ショパンはベッリーニのカンティレーナを高く評価し、愛していました。そうした旋律は、メロディの構築を活発にするとともに、様式的に適切な範囲内で、音楽に個性的なニュアンスを与えます。しかるべき形式でモーツァルトのピアノ音楽を演奏するためにも、装飾を施すことが必要不可欠だと、私は考えています。