14才のころ訪れた、友人の親が所有するシャファルニャ村の別荘での様子を、ワルシャワの両親に送った新聞形式の手紙では、日々の様子をユーモアとちょっと皮肉をにじませる痛快な文章で描きあげています。
例えば、1824年8月16日の「通信」には、乗馬に挑戦、どんぐりコーヒーを1日に6杯も飲み、ロールパンを食事以外に4個も平らげる、昼食も夕食もたっぷりというのに、などと書かれています。
村の動物たちの様子も生き生きと語られています。七面鳥がふ化したこと。馬にまたがったものの、馬は行きたい方に進み、熊にまたがった猿みたいにしがみついていたこと。自分の鼻に蠅が止まるのは、それは鼻がそびえたっているからだとも書いています。
村で聞こえてくる音楽にも興味津々です。自分のことを「ピション」と名づけ、ピション氏、垣根の上に腰掛けて、歌姫の大声に耳を傾ける、メロディと声は聞き取れるものの、歌詞がよくわからなくて、再度、歌ってもらったこと、犬がウズラを追いかけて、大騒ぎの様子も生き生きと描かれています。
ショパンは1838年、28才の頃からはほぼ9年間、当時もっとも有名な女流作家のジョルジュ・サンドと一緒に暮らしていました。秋から春まではパリで華やかな社交界での生活、そして夏になると避暑と創作活動の日々を過ごすために、サンドが所有していた、フランス中部のベリー地方にあるノアンの館に滞在していたのです。そこはパリから馬車に揺られて1日以上かかるというのに、多くの友人知人たちが招かれるのを待ち焦がれるほど、大人気の場所でした。ショパンより6才年上のサンドは、本当にもてなし上手だったからです。
食堂には館の畑で取れる新鮮な農作物を使った色とりどりの料理、朝はサンド手作りのジャムが並び、焼き立てのパン、そして滋養たっぷりの卵などなど。夕食は、狩りの季節はその射止められた獲物を料理したもの、若鶏の串焼き、大鍋で作られる野菜シチュー、パテなどなど。滋養があるからと取り寄せる赤ワインが食を進ませました。
食後はサロンに移って、コーヒー。そこにショパンが髪型を整え、気取ったイギリス人風に登場したり、滑稽な役人になりすましたりして出てくると、友人たちはやんやの大喝采となりました。でももちろん、みんなの心からのお楽しみは、ショパンの演奏でした。
即興で演奏することも、できあがったばかりの曲を披露することもありました。