17日の会見を受けて、ドイツの新聞フランクフルター・アルゲマイネは、「立ったまま参加」という大規模イベントの定義の言葉尻をとらえて、「(ザルツブルクは)座って観覧するからいいとでもいうのか」と揶揄している。記者は、「この音楽祭に足を運んだことのある人なら誰でも、観客同士がいかに密接した環境に置かれるかがわかるはずだ」と指摘し、ラブル=シュタドラー女史がパンデミックをあまりにも甘く見すぎていると批判した(4月21日)。
他方、オーストリアのメディアもまた、会見以降、つぎつぎと関連記事を掲載している。ウィーンの日刊紙ヴィーナー・ツァイトゥングのインタビューに答えた音楽祭の芸術監督、マルクス・ヒンターホイザー氏は、「全面中止を安易に決めることはまったく本意ではない」と述べ、たとえ縮小されたかたちであっても、ザルツブルク音楽祭を開くことは、コロナ危機に際して音楽や演劇文化がどのような解決策を取れるのかという問題にたいして現実的な解答例を示す結果になるだろうと強調した。
音楽祭継続の必要性を主張するのは、ヒンターホイザー氏ばかりではない。地元紙ザルツブルガー・ナハリヒテンは、ヴィンフリート・ハスラウアー州知事が、音楽祭恒例のオープンエア演劇公演、『イェーダーマン』だけでも何としても挙行すべきだと熱弁する様子を伝えた。
2016年の『イェーダーマン』のトレーラー
バイロイト音楽祭からオクトーバーフェストまで、多くの伝統あるイベントを早期に中止決定したドイツとそのメディアからすれば、ザルツブルク音楽祭関係者の開催への固執はいささか奇異に映るにちがいない。その背景には、年間2億ユーロの利益をあげる音楽祭の経済効果が存在することも否定できないだろう。ザルツブルクにかぎらず、3月初旬からまる1ヶ月間、一切の活動を停止したオーストリアの観光産業は、すでに十分に大きな打撃を受けている。
だが、こうした経済的事情を超越して、関係者たちがいま、ザルツブルク音楽祭が歴史と社会において担うべき役割を改めて意識するようになってきている状況にも注目しておきたい。
この音楽祭が創設されたのはいまからちょうど100年前、第一次世界大戦直後の時代であった。そのルーツはまさしく、戦争に疲弊し、貧困に悩んだヨーロッパに、改めて音楽と演劇文化の素晴らしさを発信しようと望んだ芸術家たちのアイデアと尽力にあったのだ。
そして2020年、世界は、コロナウイルスという目に見えない脅威が人間の身体だけでなく心をも蝕もうとする未曾有の危機に直面しつつある。この困難なときだからこそなおさら、私たちの精神を支える音楽文化の伝統の灯を絶やすべきではないという自負が音楽祭を支える人びとの心中にあることも、見過ごすべきではないだろう。