起死回生をかけた第5番

そんな彼も、大きな試練に二度遭遇している。その最初は、いわゆるプラウダ批判という、彼のオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》とカンタータ《明るい小川》へ向けられたものだった。彼は予定されていた交響曲第4番の初演を取りやめた。あんなポスト・マーラー風の複雑極まりない交響曲を発表したら自分の命がマジで危ないと思ったのだろう。

そんな作曲家の起死回生の一発が、交響曲第5番だった。

ロマン派の交響曲らしい全4楽章形式だ。古典的なソナタ形式の第1楽章に、いかにもスケルツォらしい第2楽章。第3楽章は打ち沈んだような緩徐楽章で、やけに荒々しく始まる第4楽章は勝利を宣言するようなコーダで結ばれる。

まず、苦悩から闘争を経て勝利という、ベートーヴェンの交響曲第5番のセオリーを受け継ぐ。さらに、ドヴォルザークやチャイコフスキーの交響曲のフォーマットながら、そこから甘美さを完全に排除して鬱な音楽に置き換え、スパルタンな要素を大いに盛り込んだのだった。

ただでは転ばないしたたかさ

その結果は上々。社会主義リアリズムの最高峰として評価された。なぜか日本では「革命」という愛称で親しまれるようにもなった。「売らんかな」なのか、当時の左派文化人の思い入れなのか。それはともかく、果たして、ショスタコーヴィチは、この交響曲でやすやすと軍門に降ったのか。

ただでは転ばねえ。そんなしたたかさは、この交響曲のなかにもちゃんと宿っていた。

たとえば、第2楽章にこっそりとビゼーの《カルメン》から引用が入っている。カルメンが「あたしの秘密は自分で守る、自分でちゃんと守るさ」と歌う意味深い旋律。

また、終楽章では、自作の歌曲《プーシキンの詩による4つのロマンス》から第1曲〈復活〉の音型や伴奏を取り入れている。この歌曲は「天才の書いた絵に野蛮人が落書きをして台無しにするが、歳月が経ってかつての美しさを取り戻す」といった内容をもつ。野蛮人=国家の横暴を示唆していると深読みも可能だ。彼は、こうした暗号めいたメッセージを作品に頻繁に取り入れた(じつは秘密の愛人へのメッセージが多く、この曲もラブレター的にも解釈できるという)。

そして、勝利を表わす終楽章コーダは、どこかぎこちない。不自然に、白々と白熱していくファンファーレだからだ。この部分について、「強制された歓喜」を表わしたという説を目にしたときは、なるほどと膝を打ったものだ。この説は、作曲家の死後に出た『ショスタコーヴィチの証言』なる本に出ており、その本はのちに偽書と認定されたものの、この説についてはあながち間違っているとは思えないのである。

ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」