『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の「壁に書かれた文字」のシーンと『ベルシャザールの饗宴』

イギリス音楽には自由と親しみやすさがある一方で、合唱曲には緻密なアンサンブルが必要とされるのも一つの特徴です。合唱曲で聖書の題材が醸し出す神秘的な雰囲気や複雑なハーモニーの響きには、ハリー・ポッターの世界と共通するものが感じられます。

例えば、20世紀の合唱レパートリーの頂点ともいえるウィリアム・ウォルトン(1902-1983)の《ベルシャザールの饗宴》。『旧約聖書』の「ダニエル書」5章の物語を題材としたオラトリオ(宗教的,道徳的題材を劇的に扱った大規模声楽曲)ですが、このエピソードでは、新バビロニア国王、ベルシャザールがエルサレムの神殿から略奪した神聖な遺物を使用して酒宴を開きます。

その際、神の手が現れ、壁にベルシャザールの治世が崩壊する予言の碑文を書きつけたとされています。ロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されているレンブラントの『ベルシャザールの饗宴』でも、その場面が描かれています。

レンブラント:ベルシャザールの饗宴(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵)

それでは、『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の「壁に書かれた文字」の場面を振り返ってみましょう。実は、ここにもベルシャザールのモチーフが含まれているのです。ハリーがホグワーツで遭遇する壁には、血の文字で「秘密の部屋は開かれた。継承者の敵よ、用心せよ」と書かれていました。英語で「壁に書かれた文字」(‘The Writing on the Wall’)という言い回しは、ベルシャザールを連想させ、不吉な前兆を意味する表現として用いられます。

『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の「壁に書かれた文字」の場面(0:50より)

1929年、ウォルトンが27歳のときにBBCから「普遍的なテーマに基づく楽曲」の作曲依頼を受けた際、彼が題材に選んだのが『ベルシャザールの饗宴』でした。

もともと「15奏者と合唱の小編成で」というリクエストだったにもかかわらず、2年後に完成した作品は、予想を超える巨大な規模となっていました。編成はなんと、オルガン、ハープ、4人の打楽器奏者、アルト・サックス、ピアノを加えたオーケストラに、7人編成の吹奏楽団が2つ、対位法(複数の旋律を,それぞれの独立性を保ちつつ組み合わせる書法)的に配置され、さらに混声合唱とバリトンのソリストが加わります。

ウィリアム・ウォルトン(1902-1983)。その他の代表作に「ヴィオラ協奏曲」「交響曲第1番」などがある。

作曲の技法はイギリスのオラトリオの伝統に基づいており、エルガーの影響も感じられますが、特に注目すべきは高度なアンサンブルが必要とされる複雑なシンコペーションのリズムです。

ウォルトンはジャズのリズムから影響を受けたようですが、これらの要素は色彩豊かな合唱と管弦楽によって表現され、その壮大な響きは当時はまったく新しいものでした。

ウィリアム・ウォルトン《ベルシャザールの饗宴》より、5.Thus in Babylon the mighty city  

「壁に書かれた文字」の場面では、オーケストラの迫力と対照的に、バリトンはレチタティーヴォ(ソロ)で静寂の中で歌います。その効果は、背筋が凍りつくほど強烈です。

ウィリアム・ウォルトン《ベルシャザールの饗宴》より、 6. And in that same hour