こうしたモードの変化にさらに拍車をかけたのが、1770年代の英国ブームである。黒や茶色のウール生地を使用した堅牢で実用的なイギリス製の服飾製品は、モード雑誌の口絵を通じて伝えられると、ウィーンでもたちまち大ブームを巻き起こした。
とりわけ、馬に乗るときの便利さを想定して、前身頃を短くカットし、後ろ身頃の裾にスリットを入れたライディング・コートは、フラックの進化系として、ウィーンでも外出や旅行時の標準的服装として広く定着していった。
もともと宮廷文化の華やかなトーンが支配したウィーンで、紳士服の色調がダークな方向へと変化したのも、この英国ブームがきっかけだったといわれている。
さらに、英国風フラックの爆発的な流行には、全ヨーロッパでベストセラーとなったゲーテの小説、『若きウェルテルの悩み』もまた、一翼をになっていた。愛する女性への叶わぬ恋に身を焦がして自死を遂げる主人公、ウェルテルが作品中でまとった「青いフラックと黄土色のチョッキ」は、文学青年たちの間で最大のトレンドと化した。ウィーンのカフェでも、ウェルテルさながらのフラックに乗馬ブーツ、襟元のタイをわざとだらしなく結んだ若者たちが政治や芸術談義に花を咲かせていた。
だが、1780年代のウィーンで、いわば最大のインフルエンサーとしての役割を果たした人物は、マリア・テレジアの息子、ヨーゼフ2世よりほかにはない。
神聖ローマ帝国皇帝でありながら、生涯、ハプスブルク宮廷の正装として定められた華麗なスペイン風式服をほとんど身につけることがなかったというヨーゼフは、宮廷でもほとんどの時間を、当時の官僚の日常服となっていた深緑色の地味なフラックを着て過ごした。
正装が求められた宮廷舞踏会においてすら、ヨーゼフがいつものフラックのまま、同じく平服姿の側近を引き連れてフロアを闊歩したというエピソードは、当時の宮内長官が苦々しい筆致で日記に書き残している。暗色系のフラックをフォーマルな場でも身につける習慣は、皇帝その人を通じてより広い層へと伝えられていったにちがいない。