1782年秋、モーツァルトがヴァルトシュテッテン男爵夫人に熱心にせがんだ「フロック」とは、このように、当時のウィーンでエリート層の男性が身につけた日常着であった。彼を虜にしたこの「フロック」が実際にどのようなものだったのかを、私たちは、2008年にイギリスで発見されたモーツァルトの肖像画のなかに見ることができる。
宮廷画家ヨーゼフ・ヒッケルによるこのモーツァルト像は、制作時期が書簡の数ヶ月後であることから、パトロンから贈られたばかりのお気に入りのフラックを身につけて描かれたものだといわれている。
静かな表情のモーツァルトが纏う深い色調の紅色のジャケットは、上品だが華やかな金モールがあしらわれている。合わせの部分に光を放つのは、彼がコールマルクトでみずから購入した真珠母のボタンなのだろうか。
いずれにしても、当時のウィーンの英国ブームやヨーゼフ2世の役人風いでたちと比べるなら、モーツァルトが愛したこのフラックが、一段飛び抜けて華やかな装いであることに異論の余地はないだろう。
ザルツブルク大司教と決裂し、ハプスブルク家の宮廷所在地ウィーンに新天地を求めたモーツァルト。当初より切望していた宮廷楽長の座を手にして帝室に仕えることはままならなかったとはいえ、高位の人びとをパトロンに得て、貴族のサロンでの演奏機会も多かった作曲家の交際範囲が、宮廷にきわめて近いものであったことはまちがいない。
啓蒙主義を標榜する知的階層の男性たちの服装が、暗く地味な方向に向かいつつあった時代のなかで、たまさか目にした「赤いフロック」に恋するモーツァルトの服装趣味が、当時の流行の最先端からはむしろ一歩引いて、いまだ伝統的な宮廷文化との強いつながりを保っていたと推測するのは、あながち曲論とはいえないのではないか。
モーツァルト:オペラ《劇場支配人》
単独自由行動を何より好んだ皇帝ヨーゼフ2世は、夜になると2頭立ての小さな箱馬車を仕立てさせ、首都で文化的発信地の役割を果たしたインテリ貴族らのサロンに足繁く通ったといわれる。
神出鬼没の皇帝に関するエピソードは枚挙にいとまがないが、ヨーゼフを迎えたサロンの主催者のなかには、首都随一の音楽愛好家、トゥーン伯爵夫人をはじめ、モーツァルトのパトロンたちも数多く含まれていた。
簡素な緑のフラックに乗馬ブーツ姿の皇帝が、胸元に凝った貝ボタンをきらめかせ、鮮やかな紅の上着に身を包んだモーツァルトの演奏に耳を傾けるような場面を、当時のウィーンの人びとは夜ごとに目にしていたのかもしれない。