世界の大家に勇気づけられピアニストの道へ

フジコさんは、ベルリン生まれ。ベルリン高等音楽院に留学していた母は、フジコの父となるスウェーデン人の建築家とその地で出会った。のちに一家は日本へ移住。フジコさんは、母からピアノの手ほどきを受けた。

9歳の頃、NHKのラジオでショパンの「即興曲第2番」を演奏した。「ヴァリエーションのようになっている曲です、最後までよく演奏できたと思います」と当時を振り返る。

10歳から亡命ロシア人のピアニスト、レオニード・クロイツァー*に師事。フジコさんの母はベルリン時代にクロイツァーのもとで学んでおり、フジコさんの音楽の根底には、クロイツァーの教えが脈々と流れている。

*レオニード・クロイツァー(1884-1953):ロシアのピアニスト。1933年までドイツでピアニスト、指揮者として活躍。37年から53年まで日本に滞在し、東京音楽学校教授として多くの弟子を育てた。夫人はピアニストの織本豊子

その後、東京藝術大学を卒業し、1961年に渡欧。ベルリンののちに、ウィーンではパウル・バドゥラ=スコダに師事。彼はフジコさんからレッスン代を受け取らなかった。また、彼女はニキタ・マガロフ*のムジークフェライン(ウィーン楽友協会)の楽屋でリストの《ラ・カンパネッラ》を演奏し、褒められたという。マスタークラスへ参加するように声を掛けられるも、費用を工面できず、やむなく断念した。その後、聴力を失うという不遇も経験した。

*ニキタ・マガロフ(1912 – 92):ロシア生まれのスイスのピアニスト。ロシア革命時に国外に逃れ、パリ音楽院に学ぶ。ソロのほかシゲティ(その娘と結婚)とのデュオでも活躍

彼女は、私とのインタビューでこのように述べていた。「大家の前で演奏して褒められたことで、とても勇気が出ました。もっとも感じが良くて、私を助けてくれたのは、レナード・バーンスタインでした」

レナード・バーンスタイン(1918-1990):アメリカの作曲家、指揮者、ピアニスト、テレビ解説者、著述家。《ウェスト・サイド・ストーリー》の大ヒットと翌年のニューヨーク・フィル音楽監督就任により、生粋のアメリカ人音楽家としての名声を不動にした。同職在任中には、テレビ番組「青少年のための演奏会」を通じて音楽の普及に貢献。同団辞任後は作曲活動と客演指揮活動に専心。話題作《ミサ曲》を発表。ヨーロッパの名楽団を指揮し、数々の名録音を残した。最晩年は札幌を本拠とする「パシフィック・ミュージック・フェスティヴァル」の主唱者として、若手音楽家の育成に尽力した