「ラデツキー行進曲」初演時からの評価の変化

しかし、ウィーン市民は次第に保守化し、さらなる変革を求める学生・労働者から離反していった。そして彼らは、ナポレオン戦争で活躍した戦歴を持つ81歳の老元帥ヨーゼフ・ラデツキーがハプスブルク支配下にあった北イタリアの革命派を破ったことに歓喜し、8月31日に祝勝会を開く。「ラデツキー行進曲」は、このために作曲されたのだった。

ヨーゼフ・ラデツキー伯爵(1766〜1858)

ただ、初演を聴いた聴衆は、この曲を柔弱でダンス向きであり、ラデツキーとその武勲にそぐわないと感じたという。また、ある新聞はヨハン1世の「変節」を見逃さず、彼を「音楽のカメレオン」と腐した。

このようなわけで、「ラデツキー行進曲」が好評を博すようになったのは革命後のことだった。また、ヨハン1世は反動的とみなされ、翌49年に実施した大規模な演奏旅行では、革命に共感する人々からしばしば非難された。ただ彼は実際、もう革命に背を向けていた。それはこの演奏旅行で訪英した際、2か月半で50回前後の演奏会という強行日程を押して、亡命中のメッテルニヒを訪ねたことが物語っている。

メッテルニヒ夫人メラニーは、この訪問について日記にこう書いている。「ヨハン・シュトラウスが到着し、私たちを訪問した。彼は時勢についてひどく不満を漏らしている。私は彼に、30年にわたり繁栄と平和をもたらした人物[メッテルニヒ]にウィーン人が感謝しなかったのは、彼ら自身が悪いと言った。彼は、ウィーン人は今になってようやくそれに気づいたと答えた。今日ではもう遅すぎる」。