しかし、ウィーン市民は次第に保守化し、さらなる変革を求める学生・労働者から離反していった。そして彼らは、ナポレオン戦争で活躍した戦歴を持つ81歳の老元帥ヨーゼフ・ラデツキーがハプスブルク支配下にあった北イタリアの革命派を破ったことに歓喜し、8月31日に祝勝会を開く。「ラデツキー行進曲」は、このために作曲されたのだった。
初演に対する評価は分かれている。熱狂的なリクエストに応えて二度も繰り返し演奏されるほどの大成功を収めたとの報道がある一方、聴衆はこの曲を柔弱でダンス向きであり、ラデツキーとその武勲にそぐわないと感じたとも指摘されている。また、ある新聞はヨハン1世の「変節」を見逃さず、彼を「音楽のカメレオン」と腐した。
ちなみに、今日「ラデツキー行進曲」が演奏される際には手拍子が行なわれる習慣があるが、初演に関する報道の中に、手拍子があったという記述はない。クレメンス・クラウスが指揮した1954年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの録音においても、やはり手拍子は聞こえない。しかし、54年から数年間ウィーンに留学した指揮者の大町陽一郎は、「ウィーンではこの曲が始まると歓声と拍手でまともに聴いたことは一度もなかった。皆が手拍子をとるので、それがウィーン・フィルのテンポとずれてきて、ボスコフスキーが困っていた記憶がある」と68年に回想している。また、ヴィリー・ボスコフスキーが63年にN響を指揮したときの録音を聴くと、時折まばらに手拍子が入る。よってこの習慣は55年以降に成立し、おそらく59年からウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのテレビ中継が開始されたことも影響して、徐々に世界中に広まっていったのではないかと推測される。
話を戻そう。このようなわけで、「ラデツキー行進曲」が広く好評を博すようになったのは革命後のことだった。また、ヨハン1世は反動的とみなされ、翌49年に実施した大規模な演奏旅行では、革命に共感する人々からしばしば非難された。ただ彼は実際、もう革命に背を向けていた。それはこの演奏旅行で訪英した際、2か月半で50回前後の演奏会という強行日程を押して、亡命中のメッテルニヒを訪ねたことが物語っている。
メッテルニヒ夫人メラニーは、