「黒王妃」のイメージを決定づけた聖バルテルミーの大虐殺

カトリーヌの悪名を決定的にした大事件が、1572年8月24日に勃発した「聖バルテルミーの大虐殺」だ。

カトリックとユグノーの融和を目指し、カトリーヌは王女マルグリット(旧教)と新しくナバラ国王になったアンリ(新教)の結婚式を企てた。そこに集まったユグノー教徒が、カトリック教徒に虐殺された出来事である。当該の日が聖人バルテルミーの祝日だったため、「聖バルテルミーの大虐殺」と呼ばれる。

カトリーヌは初めからユグノーの虐殺を意図していたわけではない。ユグノー側の有力者で、息子のシャルル9世が信頼し切っていたコリニー提督という人物がいた。彼は、カトリックのスペインに弾圧されていたネーデルランド(オランダ)のユグノー教徒に味方して、ネーデルランドをフランスの領土にしてしまおうとシャルルに持ちかけた。それを知ったカトリーヌは、そんな危ないことはできないと、コリニーの暗殺を計画したのだ。

コリニー提督

カトリーヌの心配は当然だった。フランスがネーデルランドに負けて、スペインに占領でもされたらどうするのか。彼女はカトリックの大貴族ギーズ公を味方につけ、コリニーのもとに暗殺者を派遣するが失敗。事件はコリニー一派とユグノーを憤激させ、反乱計画が持ち上がる。

今こそコリニー一派を根こそぎにする時だ。カトリーヌに躊躇はなかった。シャルル9世もコリニー殺しに同意する。

だが流血はコリニー一派で終わらなかった。いつの間にか国王の命令は「ユグノーを殺せ」になっていた。カトリックの街パリに暴力の火がついた。結婚式のためにパリに集まった8,000人のユグノーは、ほぼ皆殺しになったのだ。

シャルル9世は動揺したが、カトリーヌは顔色ひとつ変えなかった。「黒王妃」のイメージはこの夜完成する。

エドワール・ドゥバ・ポンサン 「虐殺跡を視察するカトリーヌ」(1880)