そして、ルターによるこのドイツ宗教改革の最大の支柱となったのが、「聖書至上主義」、すなわち、教会の権威や儀式を重視せず、聖書だけを信仰の対象とする、という新しい考え方だった。ルターによれば、キリスト教を信仰するすべての信者が、聖職者の解釈を経ることなく、自身の目と理解力で聖書を読めるようになるべきだった。この目的のために、若い改革者は1521年、ヴァルトブルク城に身を隠し、1年をかけてラテン語・ギリシャ語の新約聖書原典をドイツ語に訳したのであった。
このような立場に立つルターにとって、信者たちが教会堂で、あるいは家庭内でドイツ語による聖書の言葉を歌にして斉唱し、口ずさむことは、何より意義あることだったのだ。それは、必ずしも高い教養に恵まれなかった一般信徒にとって、聖書とその言葉に親しむための、もっとも愉快かつ簡便な手段となったからである。
アイゼナハ大学で神学のかたわら音楽の基礎を学び、修道院時代には作曲の経験も積んでいたルターは、改革期からすでに、ドイツ語聖書を歌詞とする讃美歌の作曲に精力的に取り組んだ。諸作品のなかでも、宗教改革時に多くの改革者の心の支えとなった「神はわがやぐら(Ein’ feste Burg unser Gott)」については、のちの時代、バッハがカンタータ80番および4声のコラール集において、また、メンデルスゾーンが交響曲第5番《宗教改革》の最終楽章で、それぞれ見事な編曲を完成させている。
メンデルスゾーン:交響曲第5番《宗教改革》第4楽章
キリストの生誕を待ち祝うクリスマスの祝祭は、ルターとプロテスタントの人びとにとっても、1年間の宗教カレンダーを飾る最大のイベントにほかならなかった。とりわけルターは、人びとがクリスマスの時期に、教会だけでなく、家庭で家族とともに聖書を読み、声を合わせてキリスト降誕を祝福するキャロルを歌うことを推奨した。現代のヨーロッパにおいて、クリスマスが何より家族が集いあう家庭の祝祭として祝われる起源のひとつは、ここにあるのかもしれない。
賛美歌作曲に熱心だったルター自身、100曲にあまるクリスマスキャロルを手がけているが、現代の家庭や学校でいまも好んで歌われる「高き天より我は来たれり (Vom Himmel hoch, da komm ich her)」のような作品の、素朴で清澄な響きは、500年を経てなお人びとの心を強く捉えて離さない。
「高き天より我は来たれり (Vom Himmel hoch, da komm ich her)」
ただし、クリスマスの歌唱曲を波及させる媒体となったのは、プロテスタントの教会組織だけではなかった。17〜18世紀のヨーロッパでは、大都市の出版業者や書店の流通ネットワークの末端で、小間物売や、雑多な商品を背負って辺鄙な地域をめぐり歩く行商人が、印刷物の普及と流布において重要な役割を果たしていた。都市でヒットした流行歌は、著作権がいまだ整備されない当時、コピー業者によって木版絵入りで質の悪いザラ紙に刷られ、安価で売り捌かれたのである。とりわけキャロルは、こうしたプリミティヴなビラ類のなかでも安定的な人気を誇りつつ、秋から冬にかけての時期、カトリック、プロテスタントという宗派のちがいを超えて、より広い地域へと流布した。
ドイツ南部やオーストリアを占めたカトリック圏では、いまだにドイツ語のキャロルを信徒らが会堂で斉唱することはなかったとはいえ、人びとは家庭内や同職者の集いなどの場で、これらの「ヒット作」を時にはメロディを変えながら好んで口ずさんだと伝えられる。たとえばドイツで特に人気の高いキャロル、「救いの子は生まれり(Der Heiland ist geboren)」は、その最たる例といえるだろう。
「救いの子は生まれり(Der Heiland ist geboren)」
オーストリア・アルプスの谷あいで、プロテスタント信徒の間に伝わった作者不詳の歌詞が、17世紀半ばに行商人のビラに載ってゆっくりと拡散し、ついに1780年前後にはバイエルンのワイアルン修道院(カトリック)にまで伝播した。ここではじめて修道士らによって現在のメロディが付され、その後、同修道院でキャロルのスタンタードとして歌い継がれることになったのだった。
また、カトリック信徒が多く暮らしたポーランドのシレジアでは、歌詞の「プロテスタントを想起させる部分」がカトリック的概念に差し替えられてようやく、公の場での歌唱が許されたという。
他方、わが国でもよく知られる「エサイの根より(Es ist ein Ros’ entsprungen)」は、これとはまったく逆のパターンをたどっている。この歌はもともと、16世紀に起源をもつカトリックの聖歌であった。だが、その美しいメロディ、そして世代間で受け継がれた圧倒的な知名度と人気から、プロテスタントの聖職者らはそのドイツ語バージョンを、早速ドイツ聖歌として取り入れようと企図した。
「エサイの根より(Es ist ein Ros’ entsprungen)」
ただし、このあまりに端麗なキャロルのオリジナルのテーマは、宗教改革がその創始期から否定したマリア信仰にほかならなかった。聖書だけに基づくシンプルな信仰を志向したルター派は、祈りの対象を神とイエスだけに限定し、古来、カトリック教会が聖堂の脇祭壇などに灯明を添えて祀ってきた聖母マリアおよび聖人たちを、直接の崇拝対象として崇めることを禁じたのであった。
とりわけ、「エサイの根より」の原詩では、クリスマスにマリアが処女懐胎を経てみどりごイエスをこの世にもたらした奇跡が、さまざまな象徴的レトリックを駆使して表現されていた。詩の格調を損なうことなくその表現をより緩やかにするために、17世紀の教会音楽学者ミヒャエル・プレトリウス、さらに、19世紀の賛美歌学者フリードリヒ・ライリッツらが知恵と才能をしぼり、この曲はようやく1844年、正式にドイツ福音讃美歌集に収められたのであった。
ほぼドイツ語圏すべてを統括した神聖ローマ帝国では、ルターによる宗教改革以降、激しい宗派抗争が続き、ついに1618年には三十年戦争へと発展して、多くの領地が焦土と化した。しかし、キャロルの歴史を一瞥して振り返るとき、私たちは、政治の世界であれほど激しい火を噴いた憎悪や対立精神をほとんど読み取ることができない。カトリックもプロテスタントも、たとえ作品の内容に教義的に受け容れられない部分があったとしても、歌詞の一部を変更してまでも、対立宗派の多くの聖歌を自身の讃美歌集に収録する努力をいとわなかった。
1年のうちで人々がもっとも神の守護とそれへの感謝に包まれる季節、クリスマス。この時期にひときわ華を添えるキャロルという音楽は、その本質において、宗派や派閥を超えて人間同士を結び合せる力を秘めていたのかもしれない。
他方、18世紀になると、ドイツ諸都市では、経済の発展にともなって、ブルジョアジーが貴族や教会に替わって社会的にも文化的にも力をもつようになっていた。かれらは、従来の支配層であった貴族階級とは異なる新しい生活の理想を標榜したが、とりわけ重点が置かれたのは家族と家庭生活であった。彼らにとって家庭とは、家族同士が互いに絆を深めると同時に、親しい友人らをも迎え入れて親交をあたため、また、愛情をもって子どもたちに教育をほどこす場でもあった。貴族たちが身分ごとの集団にサロンの基礎を置いたのとは対照的に、当時、文化史において影響力を増しつつあった市民のサロンは、ほとんど例外なく家族や家庭を核としていとなまれていた。
こうした生活様式のシフトにともなって、クリスマスキャロルが歌われる場にもまた、大きな変化が生じた。ルターが家庭での祝いを推奨したとはいえ、17世紀以前のキャロル合唱のメインとなったのは、あくまで教会や市庁舎など、公共の場にほかならなかった。だが、18世紀のブルジョア社会では、やがて家庭内で子どもたちが声を合わせ、大人が楽器を演奏して、クリスマスを待つ4週間の待降節(アドベント)期間中、ともにキャロルの練習に熱中したのであった。
この時代になると、教会で使用する公式讃美歌集とは別に、作曲家や音楽教師らが子供向けの「クリスマスキャロル集」をさかんに編纂し、伝統的な聖歌とはちがったオリジナル楽曲を提供するようになる。ドイツのクリスマスソングの中で圧倒的人気を誇る「年ごとに来たる(Alle Jahre Wieder)」(1837年、ヴィルヘルム・ヘイ作詞、フリードリヒ・シルヒャー作曲)や、「子どもたちよ、来たれ(Ihr Kinderlein Kommet!)」(1808/10年、クリストフ・フォン・シュミット作詞、ヨハン・アブラハム・ペーター・シュルツ作曲)などは、このような背景のもとに誕生した代表的キャロルである。
「年ごとに来たる(Alle Jahre Wieder)」、「子どもたちよ、来たれ(Ihr Kinderlein Kommet!)」
キャロルが家庭内で演奏されるようになると、おのずとその歌詞内容も変わってくる。伝統的なキャロルは、聖書内のテクストを歌詞として作曲されるのが常であった。だが、もっぱら子どもたちが家庭で歌うようになったことをきっかけに、キャロルの歌詞からはゆっくりと宗教色が抜け落ちていったのである。
ちょうどこのころ、富裕な市民の間では、自宅のサロンにクリスマスツリーを飾ることが徐々に習慣化しつつあった。子ども用のキャロルでは、みどりごイエス誕生の物語よりも、むしろ、ツリーに灯った煌めく光に目を輝かせ、静謐でありながら心を踊らせずにいられないクリスマスの祝祭を心から楽しむ子どもたちの様子が好んで描かれるようになったのである。
大人たちの間でも、同様の「キャロルの世俗化」が進行していた事実を、ドイツ起源のクリスマスソングとして世界中で親しまれる「おおもみの木よ(O, Tannenbaum)」が示唆してくれるだろう。悠々としたメロディは古くからドイツに伝わるもので、19世紀になって、教師で民謡研究家アウグスト・ツァルナックとオルガニストのエルンスト・アンシュッツがこれに詞を付したのちに、ドイツ全土で広く歌われるようになったといわれる。
「おおもみの木よ(O, Tannenbaum)」
この曲の歌い出し、「おおもみの木よ、なんじの葉はいかに変わらずにいることか/夏に緑吹くだけでなく/雪降る冬も常盤なり……」の部分を口ずさみ、この歌が、キリストの永遠の命を象徴し、クリスマスのシンボルツリーとなったもみの木を称えるものだと考える人も多いだろう。
しかし実は、「おおもみの木よ」には、ツァルナックによる秘められた2番の歌詞が存在し、成立時には、その後間まもなく差し替えられるこちらの「裏歌詞」によって親しまれていたのであった。1番で、冬も変わらぬ誠実さで緑の葉を見せてくれるもみの木には、2番において、それとはまったく対照的なカウンターパートが提示されていた。すなわち、気まぐれで変わりやすい、若い娘の恋心である。ツァルナックは、ドイツ古謡の旋律にのせて、あまりにも早く心変わりした恋人に対する恨みと悲しみを歌いあげようとしたのである。
のちになって、作詞のパートナーだったアンシュッツが、2番、3番の歌詞を樹を称える内容に差し替え、この曲は悲恋から切り離されて、ようやくクリスマスソングとしての体裁を整えられたのであった。
宗教改革にそのブームの端を発し、キリスト誕生を讃え祝う歌として波及したドイツのクリスマスソング。19世紀になると、そのなかに、シューベルトやシューマンによるドイツリートを彷彿とさせるような、深い個人的感情を込めた恋愛歌がまぎれ込むようになっていた事実に、私たちは驚きを禁じ得ないだろう。
だが、クリスマスキャロルの清澄な調べに感動を覚えつつ、声を合わせて歌ったのは、都市の富裕なブルジョアジーだけではなかった。国土の3割以上を森林山岳地帯が占めるドイツ、オーストリアでは、冬季は雪に覆われ、厳しい気象条件を突きつけられた山村でも、都市部にけっして引けを取らない熱心さでクリスマスの伝統が連綿と引き継がれていたのである。
1818年12月22日のことだった。ザルツブルク近郊の小村、オーベンドルフの聖ニコラウス教会でオルガニストとして働くフランツ・グルーバーは、クリスマスミサの準備に余念がなかった。ところが、いよいよオルガン席に上がって試演奏を試みようとしたとき、いくつかのパイプが故障を起こし、とても奏楽のできる状態にはないことを知り、グルーバーは愕然とする。
このときなぜオルガンの音が出なかったのかは、いまだに謎のままとされている。だが、その後まもなくして、首都ウィーンから文化視察官としてこの一帯に派遣され、教会文化財の調査にあたった作家アーダルベルト・シュティフターが、多くの祭壇やパイプオルガンを蝕んだ深刻な虫害、鼠害を目にし、暗澹とした調子で報告書を認めていることからも、当時のオーベンドルフのオルガンが陥った状況は、まさしく推して知るべきであろう。
クリスマスの直前になって、この僻村までオルガン修理のために足を運ぼうという業者を見つけるのは至難の技だったであろう。そもそも、かつて製塩業で栄えたとはいえ、フランス革命とナポレオン戦争後、著しく貧困化していたオーベンドルフとその周辺の信者たちに、修理費を集めて支払う能力があったのかどうかすら疑わしい。
こうして窮地に立ったグルーバーは、司祭を務めるヨーゼフ・モーアの助言を求めた。詩人でもあったモーアは、これまですでにたくさんの歌詞を書き溜めており、そのなかから提供されたのが、「きよしこの夜」であったと伝えられる。グルーバーは一昼夜で曲を書き上げ、24日の深夜ミサにていよいよ、のちに世界随一のキャロルの名曲となる作品が、2声のギターと男声デュエットによって初演されたのであった。
その後、モーアによる歌詞はおよそ300の言語に翻訳され、国境や宗教のちがいを超えて、世界で最も美しいクリスマスソングとして歌い継がれることになる。
「きよしこの夜」
さらにこの曲は、2011年3月、ユネスコ世界無形文化遺産に登録された。登録のポイントは、ここに歌い込まれた、ドイツ語圏における伝統的なクリスマス祝祭のあり方であったといわれる。だが、世界遺産登録を報じたオーストリア・ユネスコ委員会の報告書は、人間同士をつなぐキャロルの不思議な力、とりわけ、21世紀という、人種や宗派の問題が混乱をきわめ、人びとを、とりわけ子どもたちを、肉体的にも精神的にも深く傷つけるような時代の中で、「きよしこの夜」をはじめとするクリスマスキャロルが改めて果たすべき役割を強調して、ひときわ感慨深い。
この曲は、普遍的平和に向けた人間たちの強い希望をテーマとし、また、聴くものの心に、全人類が互いに大切な仲間であるという深い感情を伝え、そして、人間同士の交流と理解を促進しようとするものにほかならない。こうした概念をもつ『きよしこの夜』は、世代を超えて人びとを結びつける力を内包し、それぞれの祝祭文化のなかで歌を大切にしようとするありとあらゆる年齢層、宗派、文化の担い手を改めて結束させるのである。