——まずは、アヌープさんがマシスン神父と出会った経緯について教えてください。
アヌープ 私は4人きょうだいで、母が16歳のときの子どもです。私が小さいころに父が亡くなり、私たちは路頭に迷いました。そして4人の子どもの面倒を一人でみることが難しくなった母は、私をミッション系の寄宿学校に入れました。1964年のことです。
古い英国スタイルの厳しい学校で、村から200マイル(約321キロメートル)も離れた場所にありました。当時まだ5歳くらいでしたから、とても辛かったですね。
——でも、お母さまがあなたを働かせようとしなかったことは、すばらしい決断でしたね。
アヌープ ええ、ほんとうに。そこにはとても感謝しています。寄宿学校には何人もイギリス人神父がいましたが、彼らは質素に暮らしながら、少年の世話をしていました。
マシスン神父は自身がチェリストだったこともあり、チェロが演奏できる子を育てようと考えたみたいです。こうして私は10歳の頃、神父にチェロを習い始め、やがてイギリス人の女性教師にも習いました。
運がよかったのは、当時のコルカタでは多くの外国人奏者のコンサートが開かれていたこと。むしろ今よりよい環境でしたよ。私は11歳の頃には舞台で演奏し、アメリカの弦楽四重奏団と共演する機会もありました。
——ロンドンに渡ったきっかけは?
アヌープ あるイギリス人神父が、帰国便を逃して1週間長くコルカタに滞在することになったついでに、寄宿学校にやってきました。私がエルガーのチェロ協奏曲を演奏して聴かせたところ、彼が、この子は才能があるからイギリスで勉強すべきだと主張したのです。寄宿学校サイドは、お金がないから無理だと言いましたが、このイギリス人神父は自分がなんとかする! といって帰国。ラジオでこの話をしたところ、放送を聴いた裕福な女性が渡航費を出してくれることになったのです。
そうして1974年5月、英国王立音楽院の受験のためイギリスに渡りました。
私はこのとき、初めてマシスン神父の実家を訪ね、彼がとても裕福な家の出だと知りました。こんな暮らしを捨ててインドにわたり、サンダルと衣服しか持たない質素な暮らしを送っていたのかと驚きましたね。
——ロンドンでの暮らしはいかがでしたか?
アヌープ 神父から上流階級の方たちに紹介してもらい、その関係で英国王立音楽院の教授と知り合い、無事、学校に入ることができました。しかし入学してすぐこの教授が亡くなりました。次に師事した先生は、パブロ・カザルスやピエール・フルニエの弟子で、私はカザルスに憧れていましたからすごく喜んでいたのですが、彼もまた、なんと27歳の若さですぐに亡くなってしまったのです。
次に師事した先生のものとではあまり成長を感じられなかったので、私は自分から、ジャクリーヌ・デュ・プレを訪ねました。
ジャクリーヌ・デュ・プレ