——1970年代半ばということは、ジャクリーヌ・デュ・プレが病のため演奏活動から引退したあとですね。(※多発性硬化症のため、1987年に42歳で死去)

アヌープ ええ。彼女はすでに車椅子で生活していましたが、インドから来た貧しい学生だからとレッスン料をとらずに教えてくれました。よく、夕食も食べていきなさいと言ってくれました。あるときなど、「冷凍庫にウォッカがあるからどうぞ」って。私は未成年でしたから遠慮しましたけれど、「ロストロポーヴィチが来たときは、一人で1本飲んでしまうのよ」と言っていましたね。いずれにしても、“ウォッカは冷凍庫に入れても凍らない”ということを私に教えてくれたのは、ジャクリーヌ・デュ・プレです(笑)。

その後、ジュネーヴにピエール・フルニエを訪ねてレッスンを受けた時期もありました。

——生活や勉強の支援は、神父たちから?

アヌープ いいえ! お金は自分でやりくりしなくてはなりませんでした。今年こそインドに戻らなくてはならないかもという思いで、賞金のためにコンクールを受けたり、奨学金に応募したり、緊張の連続でした。お金がありませんから、一時帰国はできません。次にインドに行くときには、立派になっていようと必死でした。

生活は大変でしたが、すばらしい人々に会う機会はたくさんありました。当時のロンドンで肌の黒いチェリストは自分だけだったこともあって、多くの人が覚えてくれました。

やがて演奏家として活動できるようになり、次にインドに行ったのは、ブリティッシュ・カウンシルが企画するインドツアーでした。

インドには今も身分や貧富による差別があります。私はブリティッシュ・カウンシルのお墨付きがあったことで、インドの人々が勝手に優れた存在だと思ってくれた。助かりました。

インドの社会は本当に難しい。私の学校の子どもたちにこうした問題を乗り越えさせることも、私のミッションです。

——ロンドンでインド人演奏家として生きるうえで、大変なことはありましたか?

アヌープ たくさんありますよ。やはり肌の色の差別があるので、演奏活動は簡単でない。笑いかけてくれていても、腹の中では別のことを思っている人もいる。

でも幸い、多くの人は私の才能だけを見てくれました。自分でエージェントと室内楽団を作ることで壁を壊し、とにかく演奏を磨くことと、よい人間でいることを大切に生活しました。音楽家として生きるには、鋼の神経を持っていないといけません。

——イギリスの富裕層には、植民地だったインドの若者を支援しなくてはという意識があったのでしょうか。

アヌープ それはないかな。多くのイギリス人はインドの文化を純粋に好み、心を開いてくれていますけれど、ごく一部、経済的に豊かな自分たちが世界を定める立場にあると考え、差別する人もいます。でもそれは、正しいことではありません。彼らが豊かになれたのは、300年間インドを植民地とし、多くのものを奪ったからにほかならないのです。

寮で生活しているのは、5歳から18歳くらいまでの子どもたち。こちらは一番小さな子どもたちのクラス。

コルカタのランドマーク、ヴィクトリア記念堂は、イギリス領時代の名残を感じる建造物の一つ。その修繕現場、荷を高いところに吊り上げるにも人力頼みなインドっぽい一コマをとらえました。

——コルカタでの学校の運営で大変なことは?

アヌープ いろいろなことが大変ですよ。インドですからね! ご存知のとおり、何もかもがゆっくりで汚職が横行しています。でも、夢を持ち、友人たちの協力を得て、なんとかやってきました。

私の学校の少年少女の多くは、水道設備もままならない村や、路上生活からやってきました。最初は男子校という話もあったのですが、私はそれは嫌でした。女の子も、学ぶ機会を得れば夢をかなえられる。卒業生はあちこちで活躍しています。

——楽器の教育は、子どもたちにどんな影響を与えていますか?

アヌープ 将来の役に立つ部分もありますが、そもそも音楽はセラピーの大切な道具でもあります。貧困世帯出身の子どもの中には、トラウマや悲しい経験を持つ子もいます。音楽をすることが、単純に彼らに幸せを与えるのです。これが結果的に教育となり、場合によっては将来につながります。

学校コンサート。友人の演奏に聴き入る子どもたち。