まずは、自分がインドの地域研究を志すに至るまでの経緯を簡単にご説明します。
私が初めてインドに行ったのは大学生の頃、春休みの2週間ほどの一人旅でした。まだ3度目の海外だというのにインドを選んでしまったがために、心配性の母は止めにかかり、普段、私の選択にほとんど口を出すことがない父ですら「納得する理由を言わなければ行かせぬ」と言い出す始末。
自分でも、一体なぜそんなに行ってみたいと感じるのか自分自身に問いかけた結果、知りたいことがあるのだと気づきました。それは……
「インドの人たちは、厳しい宗教の規律に縛られて暮らし、大部分の貧しい人は一向に豊かにならない。それなのにどうしてあんなに敬虔に宗教のルールに従えるのか。実際に交流すれば、その思考回路が少しわかるかもしれない」
ガンジス川で沐浴したい、とかならわかりやすかったのですが、なかなか抽象的な動機であります。でもそれまで、目的なき努力はしない、いわば合理的な人生を歩んでいた当時の自分にとって、これは大きな問いだったのです。
そして、こんな妙な動機だというのに、なぜか父は納得。私のインド行きは決行されたのでした。
前述の問いの答えが2週間の旅で見つかるはずありませんが、とにかく、インドの人々のぶっとんだルールに基づく力強い暮らしぶりを観察すること、思いもよらない価値観に触れることはとても刺激的だとわかりました。
同時に、世界の歴史、国際経済のシステムなどの都合でしわよせを被り、貧しい暮らしから抜け出せない層がたくさんいる国のことが気になりはじめます。
そして、私は大学院の修士課程に進み、国際協力の分野の勉強をすることになります。地域は、もちろんインド。
当時、持続可能な国際協力としてフェア・トレードが注目を集めていました。コーヒー豆などの農産物はじめ、伝統的な手工芸品を、悪徳仲介者抜きで輸出することで生産者を支援するというものです。
そんななか、モノではなく、パフォーマンスを海外に紹介して貧困層を支援するプロジェクトを知って、強い関心を持ちました。調べるうち、デリーに大道芸人ばかりが暮らす巨大なスラムがあり、彼らを支援しているインドのNGOがあると聞いて、そのプロジェクトを研究することにしたのです。
大道芸人カーストの人々はかつて、路上パフォーマンスやパトロンのための余興で生計を立てていましたが、社会の変容で地方での生活が難しくなり、1960年代から都市に流入。コロニー(居留地)を形成して数十年にわたり暮らしてきました。
そこはデリーのど真ん中にありながら、上下水道設備をはじめとするインフラが整っていないので、衛生環境が悪く、人が増えるごとに増築を重ねた家や電線でなかなかのカオスな情景が広がっていました。
しかし、路地を歩くと、一輪車に乗りながら笛を吹いている少年や、楽器を持ち寄って何かの練習をしている青年たち、むやみに踊り狂う子どもなどがあちこちに出没するわけです。ドラムの爆音がするほうを見たら、缶を連打する人の横で、リズムに合わせて青年が激しく頭をシャンプーしていたこともあります(もちろん屋外)。
パペッティアのカーストの起源は8世紀にまでさかのぼるといいますから、これこそが、ミュージシャン、エンターテイナーとしての血を脈々と受け継いできた人たちのノリなのかと、感服せずにいられませんでした。
ちなみに、以前このコロニーを訪ねてくれたとある日本人ピアニストの方が、彼らのパフォーマンスを見て、「シンプルに聴こえるけれど、どれだけ音楽理論を勉強していても、あの音楽は真似できない。体から音楽が湧き出ている。太陽の光の量も関係しているのかも……」と話していたことが印象に残ります。
初めてこのコロニーを訪れて感動したのは、この一家のお父さんの歌声。もう17年も前の映像です。