――市民生活の中の音楽はどうでしょうか。ウクライナ国立歌劇場では、ロシア人作曲家の演目はすべて排除されています。チャイコフスキーもムソルグスキーも、キーウでは演奏されないし、同様のことはポーランドでも起きています。でもフランスやイタリアでは堂々とロシアのものはやってるし、日本でもやっています。ロシアでは、上演演目の変化はあるんでしょうか?
毛涯 ちゃんとヨーロッパの音楽も演奏されていますし、制限はないと思います。プロの音楽活動は普通にやっていくしかないので続いていますが、アマチュアは、演奏をするような世の中の風潮じゃない、というような自粛ムードが少しありました。
――戦時中だから、みたいな?
毛涯 そうですね。何か弾圧のような動きがあるかもしれないという恐れと、世界に向けて何かを発信しづらいという風潮がありました。今はもうすべてが元に戻ってきていますが、僕がアマチュアのピアニストとして、いつもコンサートに出演している団体(以前そこが主催するコンクールに入賞しました)は、「しばらくやらない」と。だから僕も演奏機会はかなり少なくなりました。
――そういう意味ではロシアの市民生活も雰囲気がガラリと変わったんですね。
毛涯 僕も戦争がはじまってすぐに行ったとき、文字通り夜も眠れない日々が続きました。悪いニュースしか入ってこないし、このあと自分の生活もどうなるのか、ロシアと日本との行き来もできなくなるんじゃないか、という不安がどんどん押し寄せてきて。そういう苦しい精神状態が続いていたら、友達が「コンサートに行こうよ」と近所の屋敷のサロン・コンサートに誘ってくれたんです。
そこで、ピアノとヴァイオリンのデュオに編曲されたものですが、最初に《フィガロの結婚》序曲が演奏され始めたら、すごくこみ上げるものがあって。モーツァルトの、この能天気な、突き抜けた長調がなぜか心に刺さっちゃって、涙が出そうになりましたね。
モーツァルト:《フィガロの結婚》序曲
この暗い状況において、こういう音楽を聴かせてくれることって、人間にとって大事だなと。音楽はやっぱり人間にとって、必要不可欠なものなんですよ。有用性があるない以前の問題で、人間が人間であること……他の動物にはできない「芸術」が、人間としての証じゃないですか。大げさでなく、衣食住と同等に必要なものだと思います。
そういう意味では、ロシアでは音楽がこれからもちゃんと自由に演奏されるといいなと思います。幸いそれを弾圧するような動きはあまりないですし。
――ロシアでは表現活動の自由は今までと変わらないということですか。
毛涯 内容にもよります。政治的なものを揶揄する音楽は徹底的に弾圧されるので。現代アートとかは、一部制限はあると思いますよ。音楽に関しては、今のところ僕が知っている限りではないです。
――昔は「鉄のカーテン」と言いましたけど、ソ連が崩壊してから30年かけてロシアは西側に向けてそのカーテンを開いてきたと思うんです。でも、この戦争によってあっという間にカーテンが閉じてしまった印象がありますね。
毛涯 そうですね。でもみなさん驚かれますが、意外と入ってくるものは拒まずなんですよ。