同時に《ロ短調ミサ曲》は、極めて特殊な作品でもある。バッハは人生の大半を、ルター派プロテスタントの教会音楽家として過ごしており、多くのカンタータや《マタイ受難曲》《ヨハネ受難曲》《クリスマス・オラトリオ》といった教会音楽は、ルター派の礼拝のために書かれたドイツ語の作品だ。
だが《ロ短調ミサ曲》はカトリックの礼拝のミサ典礼のための「ミサ曲」であり、ラテン語で書かれている。ルター派の礼拝でも、「ミサ曲」前半の〈キリエ〉〈グローリア〉のみで構成される「小ミサ」を上演する習慣はあったが、ミサ全曲が演奏されることはまずない。バッハはいわば、上演の見込みのない曲を書いたのだ。本質的に職人だったバッハにしてみれば、とても珍しいことだと言える。
だが《ロ短調ミサ曲》は、初めから「完全ミサ曲」だったわけではない。
本作がカトリック礼拝の「ミサ曲」として生まれたのには現実的な理由がある。バッハは、ライプツィヒの聖トーマス教会で働いていた1730年ごろ、雇い主だった市の参事会と揉めていた。状況を打開するため、1733年、ライプツィヒが属していた「ザクセン選帝侯国」の君主である選帝侯に作品を献呈し、「宮廷作曲家」の称号を賜るよう願い出たのだ。その時に献呈された作品こそ、《ロ短調ミサ曲》の前半部分である〈キリエ〉と〈グローリア〉であり、2曲合わせて「ミサ」と題されていたのである。
当時ザクセン選帝侯はカトリック国のポーランドを併合したため、ルター派プロテスタントからカトリックに改宗していた。バッハがカンタータのようなルター派の教会音楽ではなくミサ曲を献呈したのは、そのような事情による。前述したように〈キリエ〉と〈グローリア〉はルター派の礼拝でも演奏する機会があったので、実際的な選択肢でもあった。
だがそれから16年後の1748年、バッハはこの「ミサ」を、「ミサ通常文」のすべてを含む「完全ミサ曲」へと拡大した。大半は過去の作品のパロディだったが、全27曲中5曲は新作である。完成はバッハの死のおよそ10か月前、1749年10月のことだった。《ロ短調ミサ曲》は、バッハが完成させた最後の作品である。