ウィーン・フィルの本拠地、ウィーン楽友協会(1898年)

このような状況下に開催された第1回ニューイヤーコンサートは、本来は、厳しい冬季戦を乗り切るための寄付金集めを謳う、一種のチャリティーコンサートとして企画されていた。しかし他方、ナチス政府、とりわけその宣伝省は、いかに戦局が厳しくても、イベントや娯楽プロジェクトをつうじて常に人民に気晴らしをさせ、その心を鼓舞し続けることを忘れなかった。ウィーンでその後も続いた年末年始コンサートの背景には、まさしく、この土地の人びとがこよなく愛すウィンナワルツや舞踏音楽をふんだんに提供して、人心を満たしておくという政治的目的が存在したことを見逃してはならない。

1941年以降は元旦に開催されるようになったコンサートは、1945年春、オーストリアがナチスから解放される年の初めまで続いた。45年まで、7回のコンサートの指揮を執ったのは、クレメンス・クラウスであった。

クレメンス・クラウス指揮のニューイヤーコンサート(1951〜54年)

戦後の危機を脱するために「オーストリア人のコンサート」へ

1945年、ナチス・ドイツから解放されると、オーストリアでは、アメリカ、イギリス、フランス4国による占領統治がスタートした。解放から数ヶ月、オーストリアの古参の政治家、カール・レンナーが他の政治派閥と連合して独立国家宣言を発し、これを分割占領国側がおおむね承認したことから、ニューイヤーコンサートの本質も、ナチスのプロパガンダ活動を脱して、大きく変化したのである。

ナチス政権のもとで多くのコンサートを指揮したクレメンス・クラウスに代わって、新たに指揮台にあがったのはヨーゼフ・クリップス。このときのコンサートもまた、戦争で貧困に陥った人びとのためのチャリティーであったが、他方、その入場料は、平時にくらべても格段に安価に抑えられたという。

ヨーゼフ・クリップス(1902〜1974)
終戦後ウィーン・フィルとザルツブルク音楽祭を最初に指揮したひとりとなった。1979年まで、ニューイヤーコンサートを指揮したのはクレメンス・クラウス、ヨーゼフ・クリップス、ヴィリー・ボスコフスキーの3人のみで、いずれもウィーン出身。

ウィーンに生まれ育った人びとにとっては、戦後直後の時代は、経済的困窮は言うまでもなく、まさに深刻な精神的危機を意味していた。連合軍による容赦ない空襲によって、国立歌劇場は無惨に屋根が抜け、ブルク劇場もまた劇場としての体をなさない状態だった。

ウィーン・フィルの新規ニューイヤーコンサートは、当時、アン・デア・ウィーン劇場などを会場に折に触れて行なわれていたオペラの無料公演と同様、戦争によって傷ついたウィーンの人々の心を癒し、新しい時代の第一歩に向けて激励するという、新政府および音楽家たちの意図に支えられていた。この意味で、まさに、1946年のコンサートは、「オーストリア人のコンサート」へと変貌を遂げたのである。

2曲のスタンダード作品

こうしてニューイヤーコンサートが「オーストリアのコンサート」となったとき、いまも私たちにとって欠かすことのできない2つの名曲が、スタンダード曲として必ずプログラムに加えられるようになった。ヨハン・シュトラウス2世による《美しき青きドナウ》(1866年)と、その父シュトラウス1世による《ラデツキー行進曲》(1848)である。どちらの作品も、今日、パフォーマンス付きアンコール曲として広く親しまれている。

ボスコフスキー指揮、1879年のニューイヤーコンサートより《美しき青きドナウ》、《ラデツキー行進曲》

1866年、もともと男声合唱団のために作曲された《美しき青きドナウ》は、オーストリア帝国時代からすでに「第二の国歌」として称賛され、19世紀末から20世紀にかけては、大晦日の舞踏会などで、日付けが変わるころ、最後の曲として演奏されるのがある種の慣習となっていた。こうしたことから、過去6回にわたったナチスのプロパガンダ・コンサートでも、現地で「ドナウのワルツ(Donauwalzer)」として愛されてきたこの作品は、実際に数年おきに演奏されていた。

ただし、オーストリアがまだ主権国家として認められず、正式な国歌をもたなかった1946年、ウイーン・フィルによって優美に奏でられた、この「第二の国歌」のワルツの調べは、聴衆に自分たちの音楽的アイデンティティをひときわ強く感じさせたにちがいない。

合唱版《美しき青きドナウ》

一方、《ラデツキー行進曲》は、1848年、ナショナリズムを旨とする三月革命がオーストリア帝国を吹き荒れ、北イタリアとハンガリーの人々がオーストリアによる支配を打倒して独立の道を目指そうと立ち上がったとき、名将ラデツキー将軍が帝国軍を率いて速やかに現地入りし、たちまち反乱を鎮圧して首都に凱旋したことを記念する曲であった。

もともと多民族によって構成された帝国の崩壊の兆しに恐慌をきたしていたウィーンの市民は、この曲とともに、国家的英雄の帰還を熱狂的歓声をもって迎えたというが、ラデツキー将軍とその軍隊が現地ではたらいた目を覆うような残虐行為は、その後、今日までイタリア人やハンガリー人の記憶から失われることはけっしてなかった。

ヨーゼフ・ラデツキー将軍

しかし、ラデツキー将軍の華々しい勝利は、のちのオーストリア軍の大いなる誇りとなり、第一次世界大戦においても、敵国との軍事的対峙にあたっては、この行進曲が、軍楽隊によってしばしば力強く奏でられた。ナチスドイツからの解放後、あえてこの曲がニューイヤーコンサートの終曲に選ばれたのも、他国からの侵略を払拭し、いまや新しい国を築いていこうとする、新世代のオーストリア人による矜持のあらわれであったにちがいない。

だが、春の花にあふれる黄金のホールで、新しい年への希望に満たされつつ、指揮者の指示で夢中になって手拍子を打つ観客のあいだに、かつてはこの国もまた残虐な侵略国であったという、いわば「黒歴史」に、わずかなりとも思いを馳せるひとはほとんどないだろう。

入手困難を極めるニューイヤーコンサートのチケット〜音楽の「民主化」か「排他性」か

さて、この文章の冒頭で、世界90ヶ国以上に向けて生放送され、地域や民族にかかわらず誰もが平等に視聴できるウィーンのニューイヤーコンサートを、仮に「音楽のもっとも平等かつ民主的な理想型」と呼んだ。

しかし、ここでいう「民主性」、「平等性」とは、いうまでもなく、あくまで自宅のリビングなどでコンサートを楽しむ層を前提にした見かたでしかない。もし熱烈なファンが現地に足を運び、この人気演奏会をライブで視聴しようと望むなら、状況はおのずと変わってくるだろう。会場となる楽友協会大ホールの収容人数はおよそ1800席足らず。これらの座席のかなりの部分が大使館やスポンサー関係に配布されるので、販売対象となるチケットの数は、公表はされていないものの、およそ1200~1500席ほどだと言われている。まさしく、その入場券が、「世界一入手困難なイベントチケット」と呼ばれる所以である。

昨今では、来年のコンサートの希望者は、約1年前の2月中にウイーンフィルハーモニー管弦楽団事務局を通じてウェブで申し込む制度になっているが、かつてはすべて郵送の書面でのみ受け付けていた時代もあった。ウィーン・フィルの公式ウェブサイトによれば、チケット代金は立ち見席の35ユーロから1200ユーロとされているが、しかし、この価格でチケットを手に入れることのできた人はまさに幸運児だろう。実際には、スポンサー等に配布された招待チケットが転売され、2000ユーロを超える価格で取引されることも珍しくはないという。

筆者もまた、過去、2017年に一度だけ、ニューイヤーコンサートを訪れる機会に恵まれた。ちょうどこの前年、難民危機に揺れたヨーロッパで、ウィーン・フィルのメンバーらが、首都郊外に難民の人々が家族で暮らせる住居の建設計画に着手しており、そのための寄付を広く募っていた。そのリターンが、翌17年、最年少で抜擢されたグスターヴォ・ドゥダメルが振るニューイヤーコンサートのチケットだったのだ。

オーケストラ経由でのチケット入手は絶望的だったが、かといって転売業者を頼るのも気が進まない。迷わず寄付支援に応募し,極めて特殊な方法でチケットを手に入れたのだった。もちろん、寄付額は転売業者の提供価格を大幅に上回ったが、少なくとも、音楽を愛する心が誰かほかの人の役に立っているという感覚に満たされることはできた。

2017年のチケットとプログラム

クラウドファウンデイングでは希望の席が選べないが、当日、私に割り当てられた座席は、Garelieの最後尾列の右端。Garelieといえば、楽友協会ではいわば天井桟敷のようなもの。舞台は恐ろしく遠いが、端の席なので視界が遮られないことに、まあよしとした。

ところが、開演時間が近づくと、次々と席を埋める観客の間に、しきりにため息が漏れてきた。隣席のドイツ人夫婦はしばらく絶句したのちにひと言。「この値段でこんな席とは……」。ご主人がまじまじと眺めるチケットには、440ユーロの表記があった。この価格なら、夏のザルツブルク音楽祭でスター公演のオペラを前方席で観ても、まだお釣りが来るくらいだろう。さらに転売業者経由で購入した観客の落胆は、推して知るべしだろう。寄付チケットのため、価格表示のない自分のチケットが、切なくもあり、またほんの少し誇らしくもあった。

ドゥダメル指揮、2017年のニューイヤーコンサート

オーケストラ事務局の手を離れて、常識では考えられないような価格で売買されるニューイヤーコンサートの入場券。お金に糸目をつけないその争奪戦は、まさに、冒頭で述べた「音楽の平等性・民主性」の対局にある概念であろう。地球上何億の人々にウィーン音楽の素晴らしさを伝える一方で、年とともにますますプレミアイベントとしての性格を強めていくウィーン・フィルのニューイヤーコンサート。この演奏会の歴史的起源を振り返ると同時に、わたしたちは、今後それがたどるべき未来の経緯からも目が離すことができないであろう。

山之内克子
山之内克子 西洋史学者

神戸市外国語大学教授。オーストリア、ウィーン社会文化史を研究、著書に『ウィーン–ブルジョアの時代から世紀末へ』(講談社)、『啓蒙都市ウィーン』(山川出版社)、『ハプス...