ピカソが仲間と集っていたモンパルナスのカフェ「ラ・ロトンド」に出向いたコクトー

パリはまた、中央に流れるセーヌ河によって右岸、左岸に分かれます。プルーストは生涯右岸を出ることはありませんでしたが、やはり右岸の住人で、ノアイユ伯爵夫人やポリニャック大公妃、大富豪のミシア・セールに可愛がられていた詩人のコクトーは、20世紀初頭から芸術の中心地に移行した左岸のモンパルナスに進出するべく、算段します。

目をつけたのはキュビズムの創始者、ピカソでした。1904年から右岸のモンマルトルの「洗濯船」に住み着き、07年に《アヴィニョンの娘たち》を発表し、12年に左岸のモンパルナスに移ったピカソは、まさに前衛の旗手でした。

コクトーはピカソに近づく手段として、彼の絵のモデルになりたいと願い、道化師の扮装をしてアトリエを訪ねますが、うまくいきませんでした。 1916年、サティの音楽によるバレエ『パラード』を構想したコクトーは、話題性を増すために舞台美術をピカソに依頼しようともくろみます

サティ:バレエ『パラード』

当時カメラに凝っていたコクトーは、同年8月、ピカソがモディリアニやキスリングらと集っていたモンパルナスのカフェ「ラ・ロトンド」に出向いて彼らの写真を撮ります。「ラ・ロトンド」は、モンパルナス大通りとラスパイユ大通りの交差点にあり、向いには、やはり文芸カフェで知られた「カフェ・ル・ドーム」が今もあります。

ラ・ロトンド
カフェ・ル・ドームとラ・ロトンドを結ぶ横断歩道
ラ・ロトンド店内で撮影されたキスリング、パクレット、ピカソ(1916年8月)

コクトーの回想によれば、ピカソに『パラード』の装置と衣装を依頼したのは、このタイミングだったようです。コクトーは、ある日記の中で次のように書いています。「1916年のモンパルナス、雑草がまだ舗石から顔を出していた……。ぼくがピカソに『パラード』をやってくれないかと頼んだのは、『ラ・ロトンド』と『ル・ドーム』のあいだ、通りのまんなかでだった」。

「ル・ドーム」の前は現在パブロ・ピカソ広場と名付けられています