――日本で長らく流通している、いわゆる「芸大和声」とあまり異なる感じがしないのですが。
森垣 チャイコフスキーはエルンスト・リヒターの『和声教本 Lehrbuch der Harmonie』(1853)から大きな影響を受けています。リヒターは厳格対位法(※2)の規則によりながら、カントゥス・フィルムス(定旋律)(※3)上に四声体を作る課題を組み入れています。
チャイコフスキーも、ゼクエンツ(※4)や転調、偶成和音(※5)(チャイコフスキーの教本では「偶発的な和声」)を経たあとに、終盤で厳格様式(※6)を謳い、同じ章でカントゥス・フィルムスを用いた和声づけを行なわせています。
※2 厳格対位法:15-16世紀のポリフォニーを手本とし、厳格な規則にしたがう対位法。半音階的和音や、予備のない不協和音程の使用などが制限される。
※3 カントゥス・フィルムス(定旋律): 対位法作曲の基礎になる旋律で、はじめから与えられており、これに対旋律を付してゆく。対位法の学習のさいに、定旋律が使用されている。
※4 ゼクエンツ(反復進行):ひとつの短い楽句を同じ音型のまま、異なった音高で2回以上繰り返すことをいう。
※5 偶成和音:非和声音(転移音)が用いられた結果、偶然的に成立した和音。掛留、倚音、経過音、刺繍音、先取音などが用いられたさい一時的に成立する。
※6 厳格様式:長三和音・短三和音の基本形・第一転回形、減三和音の第一転回形のみを使う様式。終結部の終止も、ドミナントの三和音とその第一転回形、そしてトニックは根音と最上声部が主音でなければならない。
森垣 また、序でチャイコフスキーは「初心者を混乱させるものが多いが、これは実践的な目的を追求した著書だ」と書いています。同じことがリヒターの教本にも書かれてあり、若いチャイコフスキーがリヒターから多くのアイデアを採っていることが分かります。
リヒターの教本は少なくとも6ヵ国語に翻訳され、ヨーロッパやアメリカ合衆国では数世代にわたり学生の教科書として使用されました。大正2年(1913年)には、日本語訳もされています。日本の和声の教本の歴史を辿れば、リヒターのあと、下総皖一先生が戦前に出された『和声学』(1935)の改訂増補等を戦後に出され、長谷川良夫先生が『大和声学教程』等々を出されました。このように、戦前のヤーダスゾーンやハウプトマンを含め、ドイツ系のものが数多く整備されてきました。
それが1964年以降、パリで学ばれた東京藝術大学の池内友次郎先生と島岡譲先生が中心となった、いわゆる「芸大和声」のプロジェクトによる『和声 理論と実習』が出版されて、フランスの影響も大きくなりました。
98年には『総合和声 実技・分析・原理』が、さらに2015年『新しい和声』が出て、今では日本の専門教育で広く用いられている教本の間にも、少しずつ違いが見られるようになりました。
山本 リヒターの『和声教本』が日本の和声教育のかなり始まりに近くに導入され、チャイコフスキーが参照したものがリヒターに辿りつくなら、日本の和声教育(芸大和声までの)とチャイコフスキーは、元は1つだと言っても過言ではないかもしれません。
ですから、細部に異なる点はあっても、芸大和声で勉強された方が「同じことを言っているな」と感じられるのでしょう。それも興味深いなと思います。