フーガやオーケストラ付きの合唱曲、カンタータで審査

このコンクールは受験資格には明文化こそされていないものの、後述するように特殊なコンクールであるため、実質的にはパリ音楽院の作曲科で学んでいなければ、受験はほとんど不可能だった。パリ音楽院は作曲科自体が、なかば、ローマ賞コンクールのための受験準備クラスのようになっていたのである。

実際、自分のクラスからローマ大賞受賞者を出すことは、パリ音楽院の作曲家の教授にとっては、何よりの宣伝になった。たとえばドビュッシーはギローの作曲クラスに在籍していたが、ドビュッシーが1884年ローマ大賞を受賞すると、翌年、ギローの作曲のクラスに入学してくる学生が激増したという。

ドビュッシーがローマ大賞を受賞したカンタータ《放蕩息子》

作曲のローマ賞コンクールは二段階選抜方式をとっていた。まず予選で、受験者は四声フーガ1曲と、合唱とオーケストラのための曲を書かなければならない。フーガは主題を与えられ、合唱曲のほうは課題歌詞が与えられる。フーガはアカデミックな作曲の基礎が身についているかを見るためのもの、合唱曲は与えられた歌詞の処理能力と合唱やオーケストラの扱い方を見るためのものであった。この予選で受験者は6人ほどに絞られ、いよいよ本選へと進む。

本選はカンタータの作曲である。カンタータといっても、オペラの一場面を作るようなもので、歌詞が与えられ、それを使って複数の独唱者とオーケストラのための作品を書くのが課題だった。要は一定期間内にオペラを上手に書くことができるかが問題なのである。つまり、作曲のローマ大賞を受賞するということは、オペラ作曲家としての基礎技術修得証明書を得るようなものであった。

19世紀のフランス音楽界はオペラ中心で、パリ音楽院の教育はあらゆる面でオペラに焦点を当てた教育を行っていた。ローマ賞コンクールの内容はその意識を反映したものであった。