ドビュッシーにはピアノ曲《版画》や《映像》のように絵画芸術をイメージさせる楽曲も多く、日本美術にも関心を寄せ、交響詩《海》の楽譜の表紙に葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を模した絵を使ったことでも知られています。
1904~1905年にかけて作曲された全3曲からなる《映像》第1集に続いて1907年に書かれた第2集は、それぞれ異国の雰囲気を仄めかす3曲で構成。第2曲〈荒れた寺にかかる月〉は簡素ではあるけれど微妙な陰影を醸し出す並行和音の響きが支配する楽曲で、東洋のお寺を描いた絵画にインスパイアされて生まれたと言われています。
『commmons: schola vol.3』Debussy編で“教授”はこの曲について「ドビュッシーは完全にピアノの残響音を聴いていますね。そうしないと、こんな発想は出てこないでしょう」と発言しています。
シェイクスピアの有名な悲劇のある翻訳上演のため、ドビュッシーは自分から付随音楽の作曲を願い出たものの、1904年12月の公演本番までに完成させることができませんでした。その後も引き続き作曲を試みましたが、現在残っている完結稿はこの〈リア王の眠り〉等ごくわずかのようです。
“教授”はピアノ教室でバッハに目覚め、作曲の勉強を始めた頃にビートルズのファンになり、中1でベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番に夢中になってから、中2でこのブダベスト弦楽四重奏団の演奏する弦楽四重奏曲のレコードを聴いてドビュッシーと運命の出会いを果たします。それは自伝『音楽は自由にする』(新潮社)でも「あまりに夢中になってドビュッシーに共感して、自我が溶け合ってくるというか、もうずっと昔に死んでしまっているドビュッシーのことが自分のように思えてきた。自分はドビュッシーの生まれ変わりのような気がしたんです」と語るほどの、衝撃的な出来事だったようです。
その弦楽四重奏曲 ト短調 作品10は1892~1893年にかけて、革新的な管弦楽曲《牧神の午後への前奏曲》を書き進める過程で作曲さたもの。当時のフランス音楽シーンを席巻していたフランクやマスネのスタイルに加えて、グレゴリオ聖歌の音階やロシアの近代音楽、パリ万国博覧会で発見したジャワの民族音楽など、これまでドビュッシーが受けた数々の影響の集大成ともいえる作品です。特にこの第3楽章は美しさと同時に精神性の高さも感じさせます。