鱒は自分自身? シューバルトの暗い過去

シューバルトの「ます」という詩には、シューベルトが曲を付けなかった部分がある。「鱒のことを考えなさい。娘たちよ。誘惑する者に気をつけなさい」といった内容の第4節が、歌曲では省略されているのだ。

省略された部分を読むと、マスを釣り上げる狡猾な釣り人は、愛らしい乙女を誘惑する男に思える。たしかに、男女間の問題は多くの文学や歌曲で描かれてきた。しかし、シューバルトの詩は、単なる乙女への警告とは言い切れない。

シューバルトが「ます」を書いたのは、1777年から1783年の間と言われている。なんと、この時期のシューバルトは、急進的な自由主義者として投獄されていた。編纂していた雑誌での言説が、領主の不興を買ったからだという。

シューバルトが約10年間投獄されていたホーエンアスペルク城

成立時期を踏まえると、シューバルトがこの詩に込めたのは、当時の政治体制に対する批判だと考えられる。元気に泳ぐマスが表すのは、闊達な議論を目指したシューバルト自身であり、罠をしかける釣り人が象徴するのは、弁論の自由を妨げる領主ではないだろうか。

作曲家シューベルトにインスピレーションを与えた詩には、言葉の響きへのこだわりと自由への想いが込められていた。2つの「ます」を聴く際は、音と言葉が織りなす豊かな世界を味わい、自由に音楽が聴ける喜びを噛み締めたい。

山取圭澄
山取圭澄 ドイツ文学者

京都産業大学外国語学部助教。専門は18世紀の文学と美学。「近代ドイツにおける芸術鑑賞の誕生」をテーマに研究し、ドイツ・カッセル大学で博士号(哲学)を取得。ドイツ音楽と...