岡田 『オリエンタリズム』で有名な文芸批評家のエドワード・サイードが言っているんだけど、いわく「本来コンサートは高級レストランみたいなものではないはずだ。つまり7時に予約して、期待通りのコースメニューが出てきて、大体9時頃にはお店を出られるようになっている、そういう予定調和なものではない」と。いずれにせよ、三輪さんが意図しているのは「コンサートとしてガムランをやる」というだけの話ではないですよね?
三輪 だけじゃないですね。来てくれた人をまきこんで、一緒にやってみましょうとか、いろんなことが考えられています。いわゆる「この曲を演奏します」っていうのも、もちろんありますけれども、音楽作品を演奏する場として縁側が計画されているわけではなくて、軸を共有する場所として、イメージされています。
林田 普通のコンサートっていうのは、「演奏する側/される側、見る側/見られる側」っていう対立関係を、密閉した空間の中で、一定の時間の中で組み立てるものだと思うんですけれど、そうではなくて、行った人も、ガムランを演奏しているのを見て聴いて終わりではないってことですか?
三輪 そう、いろんな形で参加できる。大ホールがいい例ですけれども、見るほうと見られるほうがいて、一定の時間に集中して見るっていう構造になっているわけです。それをブルーローズではやめようと。そうじゃない形があるんじゃないか。それこそ演奏が終わったら、「これなあに?」とかお客さんが訊いても全然おかしくないはずだし。そういう額縁のようなものを作ろうっていう設定ですね。
ガムランを子どもが叩いてみたいって言ったら、どうぞどうぞってなっていますし、時間的にも何時から何時までって決まっていないから、話しかけたり、楽器を触らせたり……・。要するに、「何時から何時に何々をやるから見たい人は来てください」じゃなくて、「ひやかしに来てください」っていうモードで全然構わない。