林田 ガムランびっくり箱、ガムラン遊園地っていうイメージですね(笑)。ところで、ガムランっていう楽器を選んだっていうことにすでに何か意味があるでしょうし、それからチラシに「あり得るかもしれない」って書いてあったじゃないですか。この「あり得るかもしれない」というキャッチは、いかにも三輪さんらしい。
かつて三輪さんは自作の説明の中でよく、ありもしない、たとえば北海道の東北部に、実はロシア系の先住民がいたとか、そういう夢を見たっていうような解説文を書いておられました。ありもしない先住民族の話なんかを想定して、架空の民話なり習俗の上に曲を作るっていうのが、三輪さんの曲にはしばしば出てくるんですけど、こういう「ありもしない/でもありえたかもしれない」共同体とか民族みたいなものも、今回の企画に関わってくるってことなんでしょうか?
三輪 ただ単に「いままでにない新しい音楽を作る」っていうのじゃなくて、新しい芸能みたいなものを考えようとするっていうことが、僕の作曲の根本にあって、そういう「なかったけれどあり得たかもしれない音楽」っていうものを妄想して、実際にそれをやってみようっていうのが僕の創作なんですね。
三輪 そんな中で、10年ぐらい前でしょうか、ガムランのために作曲する機会があって、そこで、僕が勝手に妄想していた「かもしれない」話じゃなくて、現に目の前にあるガムランの音楽に触れた。それは西洋音楽とはまったく違う世界観とかコスモロジーを持ったもので、歴史の中で洗練されてきた楽器があって、もうそこに「ちゃんとある」っていうことに、ある意味で驚いたわけですね。「あー、なんだこれ、僕が思ってる、あり得たかもしれない音楽っていうのは、ここにはもう本当にあって、受け継がれてきたんだ」っていうことに、結構ショックを受けた。これが今回のプロジェクトの原点にあります。
世界中にいろいろな音楽がありますが、ガムラン音楽の1つの特徴っていうのは、僕の言い方で言えば、名人がいないってことですね。上手な人っていうのはいるんですけれども、いわゆる名人芸によって支えられている音楽のスタイルじゃないっていうのはとても決定的で……。
林田 ピアノやヴァイオリンとはもう根本的に違いますね。そこは。
三輪 尺八や箏もそうだし、それからインド音楽だって名人がいるわけです。もちろんクラシックは「名人による音楽」の代表格です。そして名人はとんでもない修練を積んで、とんでもない演奏をして、それがまあ1つの極致としてあるわけなんだけど、ガムラン音楽の場合はそういうのではなくて、みんなで分担してやってますから、突出して誰かがっていうのは、基本的にないですね。
もちろん、楽団の団長として太鼓を叩く人が全体を進行するという役割分担はあるんだけれども、太鼓の人の名人芸によって、その曲がすごかったりするわけではない。ここがすごく大きくて、だから共同体の形を反映しているものに違いありません。
さっきいったように、子どもが叩いてみたいと言ったら、とにかく叩くぐらいは誰にでもできるわけで、その中でうまいヘタはあるんですよ。つまり、どんな楽器でも、どんな音楽でもそうだけど、うまいっていうのは、自分は音を出すけれども、周りの音もちゃんと聞こえていること。
そういうレベルに達するには、ある程度訓練を積まなきゃいけない。けれども、とりあえず音を出すぐらいはできるよっていうところからスタートして、なだらかに、一方的に音楽を鑑賞するのではなくて、音楽が生まれる一部となって参加できる。そういう特徴はガムランならではと思うので、結構迷わず邦楽ではなくてガムランを中心に据えたのは、そういう理由です。