岡田 いつも僕は「三輪さんにとって音楽を作るっていうのは一つのワールドを作ることなんだろうなと」思ってきました。単に個々の面白い曲、きれいな曲を書くってことではなくて、「世界」を創る。
近現代の音楽制度は「この曲、あの曲」単位で動いてきました。音響だけを持ち運び可能にするわけですね。コンサートツアーという形でベートーヴェンのピアノ・ソナタを世界中のホールへ持って行ったり、消費者の側からいえばCDという缶詰めを出張先のホテルに持って行ったり、今ではネット上のデータとしてどこでもダウンロードできるわけだけど。
それに対して三輪さんは「新しい音楽を作る」ってことは、単に新しい曲を作るのではなくて、「新しい世界」を同時に提示することだと思っている気がする。そもそもサントリーホールのブルーローズに、インドネシアの村が現れるって、これはやっぱりありえなかったワールドですよ(笑)。
三輪 今回の企画みたいなものを昭和の時代に提案したら、お前何考えてるんだって、もう全然相手にされなかったでしょうね。今の時代だからこそ、サントリーホールの方も話を聞いてくれたっていう。ま、そういう時代の違いっていうのは大きくあるんだろうと思います。
岡田 三輪さんの作品っていうのは、常にディストピアとユートピアとが一体になっている感じがしてね。 そこに無性に惹かれる。
三輪 僕自身はわりと悲観的な性格なので、ディストピアのほうなんですけれども、でも死ぬ前までは生きていかなきゃいけないのでね、できるだけのことをやるっていう、そういうスタンスです。
林田 三輪さんの音楽活動を拝見していると、そもそも音楽とは何かっていう根源的な問いにすべて繋がってるなって思うんですよ。みんなが当たり前のように考えている「音楽」っていうのは、そもそも録音された音楽が大半なわけだけど、あるいは多くの人が音楽は表現だって思っているけれど、それは果たして音楽なのかっていう問い。
岡田 あるいは、民族芸能っていうのは必ず共同体とか生活様態と関わっているわけだけど、テクノロジーが作り出すヴァーチャル・リアリティの時代の共同体/音楽ってなんなんだろうっていう問い。
三輪さんの思考の根底には、「現代において音楽をやるってこと自体、テクノロジー以外ではありえない」っていう認識がある。それこそサントリーホールで演奏されるような、一見アナログに見えるクラシック音楽でも、実は幾重ものテクノロジー・ネットワークの介在を通して初めて成立しているんだという認識があるように思うんですが?
三輪 その通りに考えています。今日において話をややこしくしているのは、決定的にテクノロジーなんですよね。 その話題さえ抜いちゃえば、もっと純粋に、音楽とは何かとか話ができるのに、今はインターネットで世界中が結びつけられて、一度デジタルデータ化されてからプレイバックされたものを、僕らはほぼ音楽と呼んでいるわけで。
映画の中で主人公が悪党に追い詰められたら、僕らは自動的に手を握りしめたり、汗をかいたりしますよね。ただの映像を見ているだけだと頭ではわかっているのに体は反応するという、そういう厳然たる事実がある。
まさに同じようにして僕らは、パソコンが(再)生成する小さな音を聴いて、大オーケストラだとか思います。こんな引き裂かれた状態がテクノロジーによって可能になって。
今はVRだとか、XRだとか、メタバースだとかが喧伝されるようになって、さて、音楽においてこれ以上何ができるんだろうっていうことですよね。つまり、人力で音楽をやるってことの意味が、逆に問われているっていう。