日本の現代音楽を語るのに欠かせないふたり~武満徹と三善晃

沼尻「日本初演の4曲とともに武満徹三善晃の作品を取り上げるのは、このふたりの音楽が日本の現代音楽を語るうえで欠くことのできないものだからです。

武満さんと三善さんが活躍した時代は、日本の現代音楽に最も勢いがあった時代でした。私は桐朋学園の作曲科で三善門下の学生でしたので、あの時代の現代音楽に対するワクワクした空気を肌で感じていました。

戦後日本を代表する作曲家だったふたりですが、武満さんと三善さんが進んだ道は方向の異なるものでした。武満さんは晩年、より親しみやすい作風になっていきましたが、三善さんは生涯にわたって厳しい作風を貫きました。

作曲を独学で習得した武満さんとアカデミックに学んだ三善さんという違いもあります。武満さんには戦後の日本にアメリカなどから新しく入ってきた音楽の影響が感じられ、三善さんの音楽には強烈な戦争体験の影響が感じられます。三善さんは戦争中、川で遊んでいたときにアメリカの戦闘機の機銃掃射にあい、一緒にいた友人は亡くなったそうです。この出来事は彼の死生観に大きな影響を与えました。『生というのは死から連続していて、海面の上にたまたま現れた氷山のようなものである』というのが彼のイメージです。死者と生者の境界はあいまいだと」。

三善 晃(1933~2013)

東京都出身。平井康三郎に作曲とヴァイオリンを師事。東京大学文学部仏文科在学中、日本音楽コンクール作曲部門第1位(1953)、『ピアノと管弦楽のための協奏交響曲』で尾高賞、文化庁芸術祭奨励賞を受賞(54)。パリ国立高等音楽院に留学しシャラン、ガロワ゠モンブランに師事(55~57)。『ピアノ・ソナタ』(58)などにとりわけデュティユーへの私淑が表れている。その後は、ときに鬼気迫るような緊張感をたたえつつも、人間の実存性への温かな眼差しの伏在する音楽を創作。『レクイエム』(72)、『詩篇』(79)、童声を効果的に用いた『響紋』(84)からなる反戦三部作、90年代後半以降の『焉歌・波摘み』(98)をはじめとする、熟練した書法による管弦楽曲で確固たる地位を確立。60年代から晩年に至るまで創作された多数の合唱曲は、国内のさまざまな合唱団に愛唱されており、ピアノ教則本『メソード』(97)および自身の名を冠したコンクールを通して、ピアノ教育界に与えた影響も大きい。オペラ『支倉常長〈遠い帆〉』により第31回サントリー音楽賞を受賞(2000)。桐朋学園大学学長(1974~95)、東京文化会館館長(96~2004)。日本芸術院会員(1999)、文化功労者(2011)。[平野貴俊]
武満 徹(1930~96)

東京に生まれる。15歳ころに陸軍の宿舎でリュシエンヌ・ボワイエの『聞かせてよ愛の言葉を』を聴いて音楽に目ざめ、1948年から清瀬保二に作曲を師事。51年、瀧口修造、湯浅譲二らと芸術家団体「実験工房」を結成、劇音楽、放送用音楽、テープ音楽も発表する。たまたま耳にしたストラヴィンスキーが称賛した『弦楽のためのレクイエム』(57)、IMC(国際音楽評議会)国際現代作曲家会議でそれぞれ第5位、最優秀作品賞を受賞した『環礁』(62)、『テクスチュアズ』(64)、そしてニューヨーク・フィルハーモニック創立125周年を記念して委嘱された琵琶、尺八、オーケストラのための『ノヴェンバー・ステップス』(67)で国際的な評価を確立、日本の作曲家として未曾有の名声を獲得した。前衛的技法を独自に応用した60年代までの作品は、ときに峻厳に響くが、70年代後半以降のとりわけ水、夢、雨に着想を得た作品では、瑞々しく豊麗で耽美的な響きを追求。ポップで洒脱な「うた」のシリーズ、100以上の映画、放送用音楽の作曲、現代音楽祭「今日の音楽祭」の企画・構成(73~92)、サントリーホールの国際作曲委嘱シリーズの監修(86~98)を通して、日本の音楽文化に果たした貢献は多角的かつ厖大である。[平野貴俊]