左手であっても、なにも変わらない

畠中 新聞のインタビューで「麻痺が進んでいる」と書かれていました。

舘野 そうですね、麻痺はどんどん進んでいます。脳溢血を起こしたのが65歳のとき。80歳を過ぎたころから麻痺の度合いが高くなりました。いまはもう右足がほとんど動かない。だから歩くこともできない。それはまあ、妻のことのショック(奥様のマリアさんは3月末に亡くなられた)もあるんだろうけれど、残念ながら麻痺は確実に進んでいます。

でもね、演奏に支障は来ていません。だから平気で言えるんです。いままで積み重ねてきたものは表現できる。妻もよく言っていました。「あなた、ステージに出てピアノに触ったら、30年くらい若返っちゃうのね」って。

舘野泉(たての・いずみ)
ピアニスト。1936年東京生まれ。1960年東京藝術大学を首席卒業。1964年よりヘルシンキ在住。1981年以降、フィンランド政府の終身芸術家給与を受けて演奏生活に専念する。領域に捉われず、分野にこだわらず、常に新鮮な視点で演奏芸術の可能性を広げ、不動の地位を築いた。これまで北米、南米、オーストラリア、ロシア、ドイツ、フランス、北欧諸国を含むヨーロッパ全域、中国、韓国、フィリピン、インドネシアなどアジア全域、中東でも演奏会を行なう。これまでにリリースされたLP/CDは130枚におよぶ。 ピュアで透明な旋律を紡ぎだす、この孤高の鍵盤詩人は、2002年に脳溢血で倒れ右半身不随となるも、しなやかにその運命を受けとめ、「左手のピアニスト」として活動を再開。尽きることのない情熱を、いっそう音楽の探求に傾け、独自のジャンルを切り開いた。“舘野泉の左手”のために捧げられた作品は、10か国の作曲家により、100曲をこえる。2012年以降は海外公演も再開し、パリやウィーン、ベルリンにおいても委嘱作品を含むプログラムでリサイタルを行い、満場の喝采で讃えられた。2023年は数え年で88歳を迎え「米寿記念演奏会」全国ツアーを行なう。もはや「左手」のことわりなど必要ない、身体を超える境地に至った「真の巨匠」の風格は、揺るぎない信念とひたむきな姿がもたらす、最大の魅力である

畠中 僕は東日本大震災のときに脳内出血を起こしました。42歳のときで、左側の脳が6センチ切れました。右手の機能を失い、肺の内転筋もやられているので、右の肺活量が半分くらいに落ちてしまって。唇にもゴルフボール大の麻痺が残っています。なので、それまでのように吹こうとしてもまったく音が出ない。

楽器をずらして、左の肺を潰すように体を折り曲げたら、やっと吹けました。ただし、肺活量が減っているので、ヴィブラートがかけられない。仕方なくヴィブラートを捨ててみると、音楽のシンプルな構成がわかるようになりました。

いまは、昔よりいい演奏だと言われることが多くなりました。自分でもそう思います。病気をしていなかったら気づかなかったことです。

舘野 専門家がよく言っています。左手だけだと表現が狭くなる、華麗ではなくなると。でも僕は一切感じたことがない。

例を挙げます。病気になる前に、シサスクというエストニアの作曲家の《銀河巡礼》という曲を日本で初演しました。ウミヘビ座のうねうねした動きを両手のユニゾンでダダダーンと弾く、そういう音楽。

それで、右手が使えなくなってから、2012年に彼がその曲を左手用に編曲したんです。2本あった線が1本になった。そうしたらシサスクが「1本のほうがいいな。2本だからいいってわけじゃないんだ。迫力とか緊張感とか中身とか、全然違う」と言ったんですよ。

畠中 音楽は両手とか左手とかじゃなくて、もっと簡単なことなんですね。

 

畠中秀幸(はたけなか・ひでゆき)
建築家・音楽家。1969年広島県生まれ。9歳よりフルートを始め、中学3年より「個人コンクール北海道大会」で3年連続1位。1994年京都大学工学部建築学科大学院修士課程修了。2003年建築設計・音楽企画事務所「スタジオ・シンフォニカ」設立。2009年札幌市都市景観賞を史上最年少で受賞。2002年から12年間北海道工業大学非常勤講師。2009年北海道吹奏楽プロジェクトを設立、代表を務める。2011年に脳卒中を患い右半身の機能を失いながらも、左手のフルーティスト・指揮者として活躍中。2019年札幌文化芸術劇場hitaruオープニングイベント音楽監督。2022年7月札幌コンサートホールkitara、2023年2月札幌時計台ホールにて公演。2023年4月札幌G7環境大臣レセプションにて演奏。「左手のフルーティスト」としてNHK、TBS全国版ネットで紹介される。2022年障がい者や高齢者と社会を繋ぐ一般社団法人「結び」理事長に就任。2024年春、音楽之友社より初の単行本『左手のフルーティスト』を刊行予定。HPはhttps://sinfonicastudio.wixsite.com/sinfo