――では最後に、今のところ牛田さんにとって、音楽とは何でしょうか?
牛田 そうですね……すぐに明確な言葉が出てくるわけではないけれど、演奏家の立場としては、つねに「美しいもの」であるべきだとは思っています。
それは純粋な美の追求のような意味もありますが、同時に戦争とか、人間の負の感情とか、必ずしも美しくないものは世界にたくさんありますよね。重い教訓が課されることもある。音楽はそれらを「美しさを媒介させることによって」人間の心に干渉する力を持たせたものでもあると思っています。
美しさをコンセプトの中心に置かない音楽がたくさんあることももちろん理解していますが、たとえば20世紀末の破壊的な音楽でさえ、演奏家としてはそこに美しさを見出すべきだし、実際そこに美しさはあります。
どんな時代の、どんな特性を持った音楽であっても、聴き手が美しさを感じられるように演奏できなければならないし、それを提示できるようにしたいと思っています。
美しくないものは美しくないままに、という考え方もありますが、私はそういう方向性はあまり好きではありません。
自分でも気をつけてはいるのですけれど、本質的に私は音楽に関してちょっとエゴイスティックになりがちなところがあって。“自分の周りを本当に美しいものだけで満たしていたい”、”自分が聴きたい音楽だけに囲まれていたい”みたいに思ってしまうところがあるんです。
もちろん美しさの定義も、それに至るための解釈にも無数の可能性があるわけで、自分と違う考えを認めないというようなことではないのですが、演奏家というよりも純粋に音楽愛好家的な目線で「好みに弾いてくれる演奏家がいないから自分で弾く」みたいなところはあります。
▼リーズ国際ピアノコンクールの2次予選における牛田智大さんの演奏
吉松隆:ピアノ・フォリオ…消えたプレイアードによせて
リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調 S.178
――ご自身が聴き手であり、生み出す側でもあるんですね?
牛田 そうなんです、だからおもしろいですよね。
もちろん楽譜や作曲家に対して忠実であることは揺らがない大前提として、それを音に変換するためのアプローチには、正しさを逸脱しない範囲内でもかなり幅があります。
多少極端な話ですけれど、時間が経つにつれて、自分が好きなアプローチが少しずつ浸透して広がっていったらおもしろいなと。
自分自身の経験も含めて、やはり音楽によって心が動かされると、だんだん時間とともにその音楽的な方向性が自然と心に馴染んでいくわけですよね。まるでそれが「スタンダード」みたいに感じられるようになる。もし自分も聴き手に対してそういうことができたら、もちろんそれは大きな責任が伴うことでもあるけれど、それはとてもやりがいのあることかもしれないと思います。
たとえば次の世代の音楽家たちに、なにかキャリア的な意味での「華々しい成功への憧れ」みたいなものとは別の次元で、純粋に音楽的な意味で「良いな」と思ってもらえるような、彼らの音楽的な志向に少しでも影響を与えられるような仕事ができたら最高ですよね。
それは必ずしもコンクールでの成功という形だけではなく、何か別の形で実現できるかもしれないし、もしかしたら教科書の出版も含めて、教育的な面からその方向を目指すことになるかもしれないし。
それを少しずつ続けていったら、いつか自分が理想とする方向性が世の中の主流になっているかもしれない。もしそんな未来が訪れたら、ちょっと嬉しいなとは思っています。